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海峡

1982年、東宝映画、岩川隆原作、井手雅人脚本、森谷司郎脚本+監督作品。

▼▼▼▼▼最初にストーリーを書いていますので、ご注意ください!コメントはページ下です。▼▼▼▼▼

昭和29年9月26日、洞爺丸事故の救援でごった返す海岸で、一人の少年が息を吹き返す。
両親を海難事故で失った彼は、当時小学1年生の成瀬仙太といった。

この事故をきっかけに、昭和30年、青函トンネルを調査する委員会が発足する。

岡山出身の国鉄職員、阿久津剛(高倉健)は、その調査を任されて、竜飛岬へ単身赴任してくる。

浜辺で、彼は顔に傷のある少年に出会う。
少年は仙太だったが、この時、阿久津に少年の過去を知る術はない。

やがて、海底から引き上げた石を調査することで、海峡の地質調査を開始した阿久津だったが、ある日、崖から身投げしようとしていた一人の女を助ける。

彼女を連れて馴染みの飲み屋へ身を預けに来た阿久津は、ちょうど陣痛に襲われていた女将おれん(伊佐山ひろ子)を発見することになる。

その時生まれた女の子は、阿久津が「海峡」から一文字取って「峡子」と名付ける。

やがておれんを助けて飲み屋で働くようになった女は牧村多恵(吉永小百合)といい、福井の温泉旅館に勤めていたらしいが、自分の過失から火事を引き起こしてしまい、子供を含めた11人を焼死させたのだという。

多恵は、自分を助けてくれた阿久津に感謝以上の気持ちを抱くようになっていたが、その阿久津には郷里に加代子(大谷直子)というかねてから約束した婚約者がおり、数年後、本州-四国間の地質調査へ阿久津が転勤させられた折、二人は結婚したという知らせを多恵は複雑な思いで受取るのだった。

やがて国鉄総裁が代わり、昭和39年、青函トンネル建設公団が発足すると、阿久津を含めた各分野の専門家たちが集められることになる。

阿久津は、現場の総指揮を勤める人間として岸田源助(森繁久彌)に眼をつけ、当時、親不知随道建設途中の源助を訪ね、青函トンネル工事への参加を願い出るのだが、九州人の源助には、厳しい北の現場を引き受けるには大きな決断が必要だった。

熱心な阿久津の誘いもあり、結局、源助とその部下たちは参加を表明、さらに、工事の地元参加者を募ることになり、その試験会場で、阿久津は、数日前喧嘩をしている所を目撃していた成長した成瀬仙太(三浦友和)の姿を見る事になる。

周囲の反対を押し切り、阿久津は成瀬も採用することにする。

かくして、試験抗の掘削作業が開始されることになるのだが、阿久津が予想した以上に、海底の地質は脆く、工事は度重なる壁にぶち当ることになる。

 

▼▼▼▼▼個人的なコメントはここから下です。▼▼▼▼▼

「黒部の太陽」(1968)や某国営放送の「プロジェクトX」などを連想させるような、苦難の大事業に挑み成功させた男たちの半生を描く、東宝創立50周年記念作品の一本。

真面目な作品という以外に、これといった形容詞が思い付かないような作品といえる。

どこがどう悪いともいえないのだが、どこがどう面白いともいえない…、そんな印象の大作である。

穿った見方をするなら、国鉄の事業を描いている所から、そうした関係者をターゲットに想定した大量動員目的の企画だったのかもしれない。

壮絶な大自然の姿を雄大なスケールで切り取った木村大作のキャメラも素晴らしいが、いわゆるミニチュアや合成などといった特撮にあまり頼らず(本編での特撮も木村大作氏が担当している)、実物大のセットを使ったトンネル現場での芝居には臨場感があり、確かに見ごたえはある。

しかし、もともとノンフィクションで描くような内容をフィクションという形で再構築しているため、どうしてもドラマは「添え物」「作り物」にしか見えないのも事実。

特に、阿久津と多恵の心理関係や、源助の歩んで来た苦難の半生や後半の彼の行動などなどは、結構勿体ぶって描いているようで、実はそこから伝わってくるものはあまりない。

「黒部の太陽」における三船と裕次郎の立場をそのまま踏襲しているような健さんと森繁だが、水に浸かって深刻そうな芝居をしているなぁ〜という印象くらいしかなく、ちょっとわざとらしさを感じないでもない。

結婚はしたものの、ほとんど主人たる阿久津は家に帰らず、かといって、自らが子供連れで厳しい北の国に定住することも出来ず、結婚自体に疑問を感じはじめる大谷直子にしても同様。

ただ何となく、工事関係者の家族って大変だったんだな〜…という常識的な感想を持つだけである。

雄大な風景描写以外に、これといったスペクタクルがないのも娯楽映画としてはつらい所。

結局、見せ場といえば、現場での事故発生の描写くらいしかなく、その部分もどうしても「黒部の太陽」の二番煎じに見えてしまう所がある。

本作が「黒部の太陽」を意識した、しない、観客が「黒部〜」を知っている、いないは別にして、日本中がしゃにむに明日を目指して突き進んでいた高度成長期に、当時客が呼べる二大スターが共演した話題大作に対し、バブル期に作られた本作は、何となくテーマ自体にピント外れというかインパクトが希薄な感じがする。

本作が大作の割に公開当時も興行的にふるわず、その後もあまり語られることがないのも、そうしたことが原因ではないだろうか。