1966年、日活、大江賢次原作、西河克己脚本+監督作品。
中国地方の山林王、園田惣兵衛(志村喬)の息子で大学生の順吉(舟木一夫)と、その屋敷で働いていた山番の娘、小雪(和泉雅子)との身分違いによる悲恋物語。
小林旭と浅丘ルリ子コンビによる1958年作品に次ぐ二度目の映画化で、前作がモノクロ作品だったのに対し、本作はカラーになっている。
芸術祭参加作品でもある。
小雪の両親には、花沢徳衛と初井言栄が扮している。
ストーリー展開は、小林、浅丘コンビの作品とほとんど同じ。
アイドル御三家の一人だった舟木一夫が主演しているだけに、主題歌は彼が歌い、その曲はこの年のレコード大賞「歌唱賞」を受賞している。
線が細い感じの舟木が、若様と呼ばれる本作でのお坊っちゃん役にぴったりで、翌年の「夕笛」でも同じような悲劇の主人公を演じ、それまでの明朗学園アイドル風のキャラクターから、がらりとイメージを変えたきっかけとなった作品である。
映画としては、とにかく、その画面の美しさに目を奪われる。
ヒロインを演じる和泉雅子も美しさの絶頂の頃で、同じ役を演じた浅丘ルリ子や後の山口百恵よりは健康的というか、陽性のイメージではないかと危惧したが、なかなか見事に演じきっている。
今回、この作品を観ていて気付いたのだが、小雪は、順吉が自分に近づいて来ると敏感に察知する能力がある。
それは、数メートル範囲といった常識的な距離感を離れた、いわば「超能力」に近い感覚なのではないかと思える。
勿論、この作品は、文芸作品を元にしたものであり、決して「SF」とか「ファンタジー」の類いではないのだが、この小雪の能力を「単なる愛する者特有の直感」と解釈するには特異な印象がある。
その小雪の特殊能力があるからこそ、病床にある小雪の言葉に、周囲の人間が「錯乱している」と常識的な判断を下すのである。
小雪は、村人たちから「魔性」があるのでは?…と疑われたりもしている。
原作を読んだことがないので何ともいえないが、私は、この作品、一種の「ラブファンタジー」なのではないかと感じる。
封建的な身分制度、貧困、戦争…など、悲惨な現実の重さを訴える社会派作品というだけでは説明しきれない「幻想性」の要素を感じるのだ。
ラスト、深い森の中に佇む順吉と小雪を包む霧と木漏れ陽…。
現実と幻想が入り交じった、実に見事で印象的なエンディングである。
