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牡丹灯籠

1968年、大映京都、依田義賢脚本、山本薩夫監督作品。

▼▼▼▼▼最初にストーリーを書いていますので、ご注意ください!コメントはページ下です。▼▼▼▼▼

盆の13日、萩本家では、病気で急死した次男、善次郎の新盆に当り、親戚一同が集まり、嫁いできてわずかな日時で寡婦となってしまった善次郎の妻、菊(宇田あつみ)を、三男、新三郎(本郷功次郎)の妻にしようと相談していた。

きくの家と関係が出来たおかげで、萩本家は、今の地位を得ることが出来ていたため、父、善右衛門(佐々木孝丸)は、その地位を失いたくなかったのであった。

しかし、当の新三郎には、体面にばかりこだわり、人の心を無視した行いをしようとする父親はじめ、武家社会の醜さを心底嫌っていたため、独り家を離れ、貧乏長家で生活していたのであった。

結局、その日は返事もせぬまま帰宅した新三郎は、16日、日頃、読み書きを教えている長家の子供達を引き連れて、灯籠流しに出かける。

帰り際、一人の女の子の灯籠が引っ掛かっているのに気付いた新三郎は、その灯籠を川の中央に押しながしてやりながら、同じく、引っ掛かっている二つの灯籠を見つけ、同じように川に流してやる。

その時、突然暗がりから、二人の女が現れ、今流してもらった灯籠の礼を新三郎にいう。

さらに、帰宅した新三郎は、夜更けに再び、先ほどの女二人連れの訪問を受ける。

聞けば、二人は、お露(赤座美代子)とお米(大塚道子)といい、お露は、もともと武士の娘ながら、不幸な運命から吉原に身を売られて、今では玉虫と呼ばれている女なのだという。
新三郎の心根の優しさ、志の高さに、そのお露が惚れたというのだった。

その頃、長家の住人で、新三郎の手伝いをして暮している伴蔵(西村晃)は、ちょうど新三郎宅から帰り際の女二人を目撃していた。

翌日、遊び仲間の六助(伊達三郎)にそのことを告げるのだが、六助は何故かその言葉を信用しなかった。

吉原の玉虫と仲居のお米は、両名ともすでに死んでいるというのだ…。

 

▼▼▼▼▼個人的なコメントはここから下です。▼▼▼▼▼

怪談としては、あまりに有名な「牡丹灯籠」の映画化作品。

武家社会を嫌い、貧しい境遇の者たちに味方しようとする新三郎が、結局、その優しさ、実は青臭さを幽霊に突かれ、身を滅ぼす…という展開になっているのだが、新三郎のお露への気持が愛情なのか、哀れみの情なのか、今一つその心理がはっきりしない優柔不断な男に見えてしまうため、この話の中核部分にはさほど感情移入できない所がある。

面白くなるのは、伴蔵の女房、おみね(小川真由美)が登場してから以降の展開である。

前半、伴蔵を小悪人に見せ掛けておいて、実は、その伴蔵も、所詮は、おみねの引き立て役でしかなかったと気付かせる所が巧い。

三遊亭円朝の元ネタにも登場するキャラクターらしいが、本作ではこのおみねを、幽霊相手に金儲けを計画してしまう、ギャグすれすれのとんでもない女に造型しているのだ。

彼女の出現によって、後半部分はコミカル風にちょっと空気が変わってしまう。

結局、この映画で監督がいいたかったのは、「生きていても死んでいても、女は怖い」ということではないだろうか。

長家に住む白翁堂という知恵者に、志村喬が扮して登場する。

ちなみに、この作品に登場する幽霊は足がない。
しかし、「カラン、コロン」という下駄の音は聞こえるという趣向は描いている。

陰影を強調した照明と人物の台車移動、ワイヤーワークなどで、独特の幻想世界を描いている所に注目したい。