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ゴジラ FINAL WARS

皮肉な話だが、本作を引き受けた北村監督が、過去の「ゴジラシリーズ」には、おそらく何の思い入れもなく、近年の日本映画にしては潤沢な製作費を使えることだけを幸いに、丸っきり自分好みのアクション映像コミックに仕立て上げたことが、逆に本作を、シリーズ中でも意外なほどの痛快作にしてしまったように感じる。

本作を観ると、過去のこのシリーズ(特に’84ゴジラ以降)が総じてつまらなく思われたのは、作り手側や一部マニアたちの「初期作品の神格化」「シリアスドラマ志向」「キャラクターとしてのゴジラへの過剰な思い込み」などの『幻想』が原因だったことが分かる。

一作目の、一見「反核、反戦メッセージ映画」のようにも見えるシリアスな「ゴジラ」(1954)や、怪獣ブームで盛り上がっていた昭和時代の円谷特撮イメージへの過剰な思い入れや幻想が、その後の復活したシリーズに重くべっとりと付着していて、どこか、一部マニア以外の一般客には近づき難い、独特の臭気を発していたように思えるのだ。

昭和ゴジラファンだった監督たち(例えば、大森、手塚、金子各氏ら)が思い入れたっぷりに作り、一部マニア層には評判が高い作品などが、一般の映画ファンからは「オタク映画」と呼ばれ、興行成績的には存外伸びなかったのもそこに理由があったのだ。
 
「ゴジラ映画って、マニアがいうほど大して面白くないじゃん」「ゴジラって、しょせんはマンガだろ?」…、おそらくこれが、一般客の本音だと思うし、それはその通りなのだ。

北村監督の本音も、実は、その一般客側に近かったと想像され、その本音から逆発想して行き、「結局、つまらなさの元凶であるゴジラをあまり目だたせなきゃいいんじゃないの?」「マンガはマンガとして、徹底してバカやりゃいいんじゃないの?」という結論に達したのだろう。

そして、結果的にその決断は「正しかった」のだ。

本作での「ゴジラ」や「怪獣たち」は、単なるアイコン(偶像)として登場しているだけで、彼らは、ストーリーの中心から外れている。

否、物語の中核にさえ、ストーリーといえるほどの物はなく、基本的には「実写版ナンセンスアクションマンガ」とでもいうべきものしかない。

だから、旧来型の「ゴジラ幻想」に縛られている人には、本作は「最低の作品」に写るだろうし、別に何のこだわりも持っていない普通の観客には「実写マンガとして結構面白く」感じるに違いないと思われる。

ただし、この手法は、別に「映像派世代による新時代の表現」というほどの物なのかどうかは定かではない。

あくまでも、過去素材だけは豊富にある長大なシリーズ作品の『最期の作品』だから可能だった、あくまでも『一回こっきり有効』の贅沢なコラージュ手法のようにも思えるからだ。(一部、「空の大怪獣ラドン」など、ゴジラ作品以外の映像素材も混じっていたが)

又、「ゴジラ」には、さほど強い思い入れはないにせよ、70年代頃のチープな特撮&アニメを観ていた世代にも、本作はそれなりに楽しめるのではないか。

おそらく、一部マニア層や、製作サイドへのエクスキューズというかお愛想の意味で挿入したと思われるイメージの中には、分かりやすい「チャンピオン祭り」要素以外にも、「宇宙戦艦ヤマト」「宇宙からのメッセージ」「惑星大戦争」など、70年代映画を連想させる映像が随所に取り入れてあるからだ。

それにしてもこの新作、客席数も少ない小劇場で、小さなスクリーンに映し出される映像を、客席の半分にも満たない観客と一緒に観ていると、興行的には『終わるべくして終わった』観が強い。

とにもかくにも「ゴジラ」よ、長い間、御苦労さまでした。

あなたは、一作ごとはともかく、シリーズ全体をトータルすると、それなりに楽しませてくれたと思います。

今後は、『本当に』静かに休んで下さい。