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ふたりのイーダ

1976年、映画「ふたりのイーダ」プロ、松谷みよ子原作、山田洋次脚本協力、松山善三脚本+監督。

▼▼▼▼▼最初にストーリーを書いていますので、ご注意ください!コメントはページ下です。▼▼▼▼▼

ある夏の日、ルポライターの美智(倍賞千恵子)は、「瀬戸内海の若者」というテーマの取材で広島へ向う途中、直樹(上屋健一)とゆう子(原口祐子)という二人の子供を花浦の祖父母の家に預けに立ち寄ることにする。

美智に好意を寄せているカメラマンの広岡(山口崇)は、彼女ら家族が出発間際の新幹線乗り場に現れ、仕事の関係で2日遅れで後を追うと書かれた手紙を美智に渡す。

祖母(高峰秀子)と祖父(森繁久彌)の家に到着した直樹は、母が出かけた翌日、庭で見かけた蝶を追って近くの川まで来たところで、川の中から黒い濁りが湧き出てくる現象を発見する。

木陰から観察していると、道を歩く不思議な物体を目撃する。

それは、小さな子供用の椅子だった。

その椅子は、廃虚と化した一件の洋館に入り込む。

翌日、好奇心から、その洋館に独り訪れた直樹は、その椅子に乗って遊ぶ妹、ゆう子の姿を見て驚愕する。

幼いゆう子は、動く椅子に対し、友だちででもあるかのように無邪気に話し掛け、椅子も、そんなゆう子を可愛がるように乗せたまま動き回ったり、空中に浮かび上がったりする。

直樹は、無我夢中でゆう子を椅子から引き離すが、その後、その椅子は、直樹に向って「イーダはこの家の娘だ、邪魔をするお前は誰だ!」と怒り出す。

何と、その不思議な椅子(声-宇野重吉)はしゃべるのであった!!

確かに、ゆう子は、時々「イーだ!」という可愛い反抗言葉を口にすることから、内々で「イーダちゃん」と呼称されることもあったが、椅子が言っている「イーダ」とは、アンデルセン童話に出てくるイーダが大好きだったという別の女の子のことらしい。

不思議な椅子は、その二人の女の子を混同しているのだった。

後日、直樹は、祖父から、宗像というかつてのその洋館の主人と孫娘が、孫の父親に会いに広島に行った30年前の8月6日、原爆で亡くなった事実を聞かされる…。

 

▼▼▼▼▼個人的なコメントはここから下です。▼▼▼▼▼

夏のある日、田舎の古びた洋館で、幼い兄妹が怪異に遭遇する…という、まるで「となりのトトロ」のような牧歌的でファンタジックな要素と、原爆症の発症におびえる被爆女性の再婚までに至るリアルな大人の葛藤劇が平行して描かれている。

正直な所、この全く異質な二つの要素が観客を戸惑わせるのではないかと思われる。

子供向けにしては、被爆した母親とその両親の苦悩が理解しにくいだろうし、後半、かなりショッキングなホラー的表現も出てくる。

逆に大人向けとしては、ゆう子を乗せた椅子が庭先をふわふわ飛び回ったり、イーダの死を知らされた椅子が、その言葉を信じられずに一人で広島まで旅をするなどといった、いかにも幼児発想表現がどこかしらじらしい。

原爆の残酷さ、悲惨さを訴えようとする意図は、頭ではわかるのだが、画面として観る限り、さほど強烈に胸に迫るものがないのだ。

例えば、「原爆死」と刻まれた墓碑のアップをいくら強調されても、その「原爆死」なるものが、具体的にイメージできない大半の観客(子供も含め)にはピンと来るはずもないのである。

子供を意識して、具体的な被爆の残酷描写を避けたと言うのも、わからないではなく、この種のメッセージ映画の表現の難しさを痛感した。

いわさきちひろの童画タイトル、2才児くらいの誠に愛くるしいゆう子ちゃんの笑顔、祖父役とはいえ、まだまだ自転車を乗り回すほど元気だった森繁、祖母役には可哀想なほど若々しい高峰秀子、巧みな仕掛けで動く椅子のテクニックなど、見所はいくつもあるのだが、作品としては今一つと言うしかない。

子供から大人まで万人向けにと意図したことが、逆に、どの層にとってもあまり面白く感じられない中途半端な結果にさせた原因ではないだろうか。

とはいえ、決して悪い作品ではなく、少年の一夏の経験といったジュブナイルタイプの映画好きには一度は観て欲しい作品ではある。