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なつかしい風来坊

1966年、松竹、森崎東脚本、山田洋次脚本+監督作品。

▼▼▼▼▼最初にストーリーを書いていますので、ご注意ください!コメントはページ下です。▼▼▼▼▼

衛生局の課長補佐である早乙女(有島一郎)は、持病の脱肛が悪化したため、早退する電車の中で、一人のヨッパライと出会う。

役所では、若い連中から「ツツガムシ」とあだ名され、小馬鹿にされる存在である早乙女は、唯一の友だちであった同僚の「サナダムシ」事、吉川(市村俊幸)が福岡へ転勤させられる事となり、意気消沈していたのだが、その送別会で酔った帰り、自宅のある茅ヶ崎の駅前で、再びあのヨッパライと遭遇する事になる。

酔った勢いと寂寥感から、その労務者風の男を自宅に連れて帰った早乙女に、家族たちは大迷惑顔。

しかし、翌日、酔いが覚めて、置き忘れた荷物を取りに戻ってきたその伴源五郎(ハナ肇)という男の態度はしおらしいもので、後日、奄美大島の護岸工事から帰ってきたと土産持参でやってきてからは、その意外な人柄の素直さ、実直さに、早乙女の妻(中北千枝子)や長女の房子(真山知子)、末っ子の学(山尾哲彦)、さらに、隣の奥さん(九里千春)までもが、彼に対する偏見を少し改めるのであった。

ある日、いつものように早乙女家に遊びにやってきていた源五郎は、学と、彼の為に保健所からもらい受けてきた犬のポチとを連れて一緒に近くの海に散歩に出かけるのだが、何と、そこで身投げ寸前だった一人の若い女性を助けて戻ってくる。

女性は、トカラ列島出身の愛子(倍賞千恵子)といい、不幸な過去があるようだった。

成行き上、早乙女家の手伝いとして同居するようになった愛子に、時々訪れる源五郎が気があるらしい事に早乙女は気付き、彼への恋のアドバイスを授けるのだった。

ところが、ある夜、そんな源五郎に誘われて映画に出かけた愛子が、一人、ボロボロの姿になって帰ってくる。

その様子を見た妻や娘は、源五郎に乱暴されたのではないかと疑うが、源五郎の人柄を信頼し切っていた早乙女は、断固として、その考えを否定するのだった。

しかし、後日、源五郎自身が罪を認め警察に捕らえられてしまう。
彼には、色々余罪もあったらしいのだ…。

 

▼▼▼▼▼個人的なコメントはここから下です。▼▼▼▼▼

社会の底辺で貧しく生きている、どこか不運で不器用な人々に対する愛情をこめて、山田洋次監督が描くペーソスドラマの秀作。

主人公源五郎は、表面上は無教養で野卑、社会一般から軽蔑されるようなキャラクターでありながら、実はその心根は、どんな人たちよりも純で暖かく、特殊な知識や能力にも恵まれている、一本気な人間である。

これはいうまでもなく、ハナ肇主演の「馬鹿」シリーズから始まり、「運がよけりゃ」を経て、やがては渥美清の「フーテンの寅」に受け継がれる事になるキャラクターパターンである。

ただ、本作での本当の主人公は、このハナ肇演ずる源五郎ではなく、有島一郎演ずる早乙女の方なのである。

何故そう感じるのかというと、源五郎の方にはハッピーエンドが用意されているからである。

奇妙に聞こえるかも知れないが、山田監督は、貧しい人たち、不器用な人、不幸な人たちに暖かい眼差しは向けるものの、決して彼らを安易に礼讃したり、ハッピーエンドを与えるほど甘い描き方はしない。

寅さんがいつも失恋し、安住の地が定まらないのもそのためであり、単にシリーズを続けるためだけの約束事なのではない。
山田監督なりの最低限のリアリズムなのだと思う。

つまり、この作品での源五郎は、そこそこ出世し、そこそこの幸せを手にしながらも、何か孤独で満たされない中年男早乙女が無意識に求めていた「自分とは違う夢の存在」なのである。

その夢の存在がハッピーエンドを得た事を知り、満たされない主人公は「幾許かの心の慰め」を得るのである。

これはそのまま、観客の反応と重なるのだと思う。
早乙女の哀愁と源五郎の哀愁の対比の妙。

お子様向けのお伽話ではないので、この物語の後、源五郎の未来がバラ色であるかどうかは定かではない。
「たそがれ清兵衛」の物語のように、幸せはほんの一時だけなのかも知れない。

それでも、観客は「ほんの一時の幸せ感」を共有できた喜びを味わえるのである。

桜井センリ、犬塚弘といったクレージー仲間、二枚目として山口崇なども登場しているが、早乙女の上司を演じる松村達雄の存在感も印象に残る。