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めぞん一刻

1986年、東映+キティ・フィルム、高橋留美子原作、田中陽造脚本、澤井信一郎監督作品。

▼▼▼▼▼最初にストーリーを書いていますので、ご注意ください!コメントはページ下です。▼▼▼▼▼

浪人生の五代裕作(石黒賢)が、ひどい住民との共同生活に絶望し、オンボロな下宿「一刻館」を飛び出そうとしている最中、長年故障していたはずの時計塔の時計が動いて鳴り、「惣一郎さん」と名付けた白い犬を連れた美しい女性がやってきて、自分が新しい管理人の音無響子(石原真里子)だと名乗る。

現金なもので、彼女の美しさに惹かれた裕作は、そのまま一刻館に残る事になる。

四谷さん(伊武雅刀)、子連れの一の瀬さん(藤田弓子)、朱実(宮崎美子)ら家賃を払いたくない住民たちは、新しい管理人を酒に酔わせて乱暴してしまえば、こちらの言いなりになるはずと、むちゃくちゃな計画をたて、その実行者に若い裕作を指名する。

ところが、響子はいくら飲ませても平気の様子。
計画が敢え無く失敗した事を、喜んで良いのか哀しむべきなのか混乱する裕作は、途中で気分が悪くなった響子を妊娠していると勘違いしてしまう。

響子は、高校卒業と同時に結婚したものの、半年で夫に先立たれてしまった、まだ21才の未亡人でもあったのである。

彼女は、自分に勝手に思いを寄せてくる裕作をはじめ、何の職業か分からない四谷さん以下、住民たちのおかしな生き方を見て行く内に、段々、彼らに共感を抱くようになって行く。

そんな一刻館に、朱実に気がある様子の不思議な男(田中邦衛)と、入水自殺した沼に、たまたま釣りに来ていた四谷さんの釣り竿に引っ掛かって助かってしまって以来、その四谷さんを元カレだと思い込んでしまった女(萬田久子)が訪れてきて、陽気なような陰気なような、何とも奇妙な雰囲気の生活が始まる…。

 

▼▼▼▼▼個人的なコメントはここから下です。▼▼▼▼▼

高橋留美子の人気コミックを原作にした作品。

原作には馴染みが薄く、ほとんど白紙の状態で見始めたのだが、前半こそ、コミックの内容をただなぞっているのかな?…と思わせるような展開で、さほど、心踊るような部分もなかったのだが、意外な事に途中から面白く感じはじめた。

おそらく、途中から始まる奇妙な男と女のドラマは、原作にはない映画独自の世界なのだろう。

シュールというか、演劇的というか、どこか人工的でありながらも独特の情感のある、不思議な雰囲気を醸し出していく。

「Wの悲劇」(1984)では、夏樹静子の原作ミステリーを、全く別の構成に改変してしまう事で、意外な佳品に仕立て上げた澤井監督だが、この作品でも、人気コミックの形を借りながらも、後半をそっくり自分の描きたい世界に変えてしまうという、大胆な離れ業に挑んだものと思われる。

そのため、おそらく、原作ファンにはそっぽを向かれたのではないだろうか?

田中邦衛演ずる人物の方は、妻に別の男と心中され、一人取り残された男である。

一方、萬田久子演ずる人物の方は、男に裏切られ、死のうとして生き長らえた女である。

互いに愛情の終焉を迎えながらも、その思いを断ち切れず、無意識に死に場所を求めている二人が、一刻館で出会うのである。

この二人の存在は、不器用ながらも愛に芽生えはじめた五代にとっては、一つの未来の象徴なのだ。

何故ならば、彼が愛した響子もまた、死に別れた夫の惣一郎さんの事が忘れられない人間だからである。
義父(有島一郎)から再婚話を勧められても、気が乗らない女性なのである。

一刻館の宴会芸シーンでの「時の過ぎゆくままに」の歌詞や、ラストで、二人の男女の運命をさして、「私たちも、ああなっていたかも知れないのよ」と諭す響子の言葉が、それを示している。

あえてこうした「愛情のむなしさ」「愛情の危険性」「愛情の暗黒面」などを描く事で、人を愛する事、生きる事の重さ、またそれに立ち向かう勇気の大切さを逆に浮き彫りにしているのだと思う。

ただ、情感溢れる落ち着いた描写部分と、シュールな描写の混合表現が、観る人によっては抵抗を感じさせるのも事実であろう。
娯楽映画として素直に楽しめる類いのものでない事も事実、原作との違いを持って拒否する人もいるだろう。

確かに、観る人を選ぶ作品かも知れないが、決して失敗作、駄作の類いではないと思う。

原作を知らない人にこそ、あえて、観てもらいたい作品かも知れない。