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スターウォーズ エピソード1

圧倒的な情報量を誇り、観る者の想像力を刺激して止まない「スターウォーズ エピソード1」だが、私にとってこの作品の印象は、ルーカスが当初から具現化したがっていた「フラッシュ・ゴードン」への、かなり意図的なオマージュであると同時に、旧作中、最も不満が多かった「ジェダイの復讐」を、作者自身が徹底的に作り直した話だな、というものであった。
命の恩人を竜宮城へ誘う亀を、日本人に連想させるジャー・ジャー・ビンクスは、誰もが気付くように、今回設定上の理由から出番の少ないコメディ・リリーフ、C-3P0の代役であると同時に、かつてのイウォークの改良キャラクターとも感じられる。軽く見られがちな彼とその仲間達が、後半の戦いで極めて重要な役割を演じる事になる構成が、「ジェダイ…」におけるそれと全く同じだからだ。
「一見、無垢で無力にしか思えない存在が、思わぬ救世主となってヒーロー達を勝利に導く」という民話的なテーマを意図しながらも、着ぐるみという安易なビジュアルと演出のまずさから、スターウォーズらしからぬ安っぽさを露呈してしまった「ジェダイ…」の教訓、さらに「ハワード・ザ・ダック」や「ウィロー」の同様の失敗を糧として、ルーカスは、再度このテーマに挑んだものと思われる。
数多くの登場人物達が織り成す、複雑な利害関係や感情の擦れ違いには、「ジェダイ…」の頃の、ビジネス戦略だけで生み出されていたかのような媚びた作劇法とはひと味違った、何やら現実の民族・人種対立なども透けて見える深い寓意性が背後に見え隠れする。
施政者や商人達の姿はいうに及ばず、ジャー・ジャーが意図的に野卑な存在に形作られている点にも、作者の思惑があるのではないか。観客の心に宿るそれらへの、表面的な感情判断が正しいものなのかどうか。アミダラが企てた「影武者」の策略に示唆される間でもなく、劇中、考えさせられる事は少なくないように思える。
そういう意味では、シリーズ中一番侮りがたい出来の作品で、ルーカスも伊達に年を重ねていた訳ではなかったようだ。豊富なメッセージ性が縫い込められた「エピソード1」の膨大なイメージ宇宙は、繰り返しの鑑賞に耐え得るだけの、十分な深みを持った秀作ではないだろうか。