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WINDS OF GOD

1995年、松竹第一興行+ケイエスエス、今井雅之原作、脚本、奈良橋陽子監督作品。

▼▼▼▼▼最初にストーリーを書いていますので、ご注意ください!コメントはページ下です。▼▼▼▼▼

1993年8月1日、お笑い大賞を取る事を目指している関西出身の新人漫才コンビ、田代誠(今井雅之)と袋金太(山口粧太)は、渋谷の劇場で演目をやり終えた後、なけなしのギャラで、亀有に女の子をナンパしに行こうと、単車に相乗りし向っている途中、交差点でトラックに激突してしまう。

目が覚めた二人は、自分達が坊主頭状態でベッドに寝かされている事に気付く。

さらに、上官なる男に連れて行かれた部屋は「二年さくら組」と書かれた小学校の教室。
そこで、彼らを待っていたのは、皆、自分達と年格好は同じでありながら、目つきが違う青年たちであった。

しかも、不思議な事に、そこにいる連中たちは、二人の事を良く知っている様子なのだ。
彼らは、二人が自己紹介しても、その意味自体が分からないばかりか、何故、急に彼らが関西弁になってしまったのかと尋ねてくる始末。

そこの連中たちは、二人を、飛行機事故で負傷した仲間の岸田中尉と福元少尉と認識している様子であった。
山本分隊長(六平直政)はじめ、部屋の連中たちは、奇妙きてれつな事をしゃべる二人は、事故のため、頭がおかしくなったとだと思い込み、彼らを放っておく事にする。

脳天気な田代と金太も、やがて、リアルな空襲などを目の当たりにする事により、事の重要性に気付きはじめる。

自分達は、昭和20年の8月1日にタイムスリップしてきたのではないかと。
あの若者たちは、これから出撃を待っている「特攻隊」の志願兵ではないのかと。

田代は、知り合った山本少尉(新井つねひろ)に、やがて、広島に原爆が落とされるんだと話して聞かせるが、その正確な日時を知らない。

後日、広島への原爆投下が現実に起こった事を知った東京帝都大学卒の山本は、超心理学を勉強していた知識を元に、二人の魂が「過去の人間に輪廻」したのではないかと推測する。

それでも、二人は、表面上脳天気な毎日を送って行く。

福元少尉に面会にきた恋人千穂(小川範子)も、身体が入れ代わっている金太にしてみれば赤の他人。
女性経験がない金太の事を知っている田代は、これはチャンスだとばかり、金太をけしかけるのだが、真摯な千穂の姿を見た金太には、どうしても手を出す事が出来ない。

そうした中、仲間たちは、次々と出撃し、皆帰らぬ人となって行く。

さすがに軽薄な田代でも、そうした悲惨で不条理な状況に、人間として素朴な怒りを押さえる事が出来なくなって行く・・・。

 

▼▼▼▼▼個人的なコメントはここから下です。▼▼▼▼▼

数々の受賞歴を誇る有名な舞台劇の映画化作品らしい。

冒頭部分では、そうした『舞台劇表現』をそのまま写したものに、少しづつ、映画的な表現が挿入されていき…という趣向になっている。

舞台という表現では、この内容で、十分に感動できると思う。
基本的に真面目な反戦テーマだし、現代人の感覚で見た戦争というものへの、素朴な疑問と反発をストレートに表現したその手法は、戦争を知らない若者中心の観客にも、素直に共感できるものだと思えるからだ。

だが、映画としては…。

低予算作品らしいので、細かな不自然さには目をつぶるにしても、どうしても解せないのが、タイムスリップしたらしい事に気付いた後の二人のオチャラけた行動。

一応この作品、「ファンタジーコメディ」と謳われているが、全く笑えないどころか、シリアスな展開上、その不自然さが気になって仕方がない。

二人の漫才師が「場の空気を全く読めないおバカ人間」という設定で、その「おバカバイタリティ」とでもいうものに、回りの人間たちも感化されていき、軍隊中がハチャメチャに…という風な、全編、徹底したドタバタパロディみたいなものなら、二人の行動も理解できないではないのだが、この映画はどう観ても、そういうノリとは全く違うものなのだ。

おそらく、舞台版では、もう少し観客がノレるドタバタ部分と、シリアスなメッセージ場面のメリハリがはっきりしている演出なのではないかと想像する。

それが、この映画版では、うまく生かされていないのだ。

こうした、笑いの演出の弱さや、地上に待機している時は緑色に塗装されている零戦が、空を飛ぶシーン(改造機)になると、機体が白くなっているのに無頓着な辺りの感覚は、女性監督ならではのものなのか?

基本的には悪い素材ではないのだが、映画としての料理法に問題が…という感じがしてならない。

別所哲也や、何か生気を失ったような顔の藤田朋子などが、ちらりと顔を見せている。