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ゲロッパ

井筒監督の作品を観ていて常々感じるのは、この人の作風って、70年代前後に松竹を中心に各社で作っていた「喜劇○○」というタイトルの作品群と同じ作り方なのではないのか?…というもの。

喜劇と銘打ってある割には、さほど笑う所はなく、むしろ、お話の骨格はペーソスか、ベタベタのお涙頂戴もので、ただ、コメディアンみたいな人が主役を演じているから「喜劇」とタイトルを付けているだけなのでは?というパターンである。

この流れの一番有名な例が「男はつらいよ」シリーズ。

コメディアン独特のちょっと哀愁を感じさせる演技で「人情」とか「泣き」の部分を強調するような、いわゆる松竹新喜劇の「泣き笑い」の伝統なのだとは思うが、この泥臭いパターンをいまだに好きな人は多いのだろうか?

井筒監督は、世代や出身地から推察して、こうしたパターンを、自然に多感な時期に身に付けたと思われる。
しかし、いわゆる「怪獣世代」とか「アニメ世代」出身のオタク系監督みたいな人は何人かいるが、「松竹新喜劇」をいまだに引きずっている(本人は意識していないのかも知れないが)監督というのも、ちょっと珍しいように思える。

さて「ゲロッパ」である。

基本部分をいってしまえば「昔別れたきりの父と娘の再会話」である。
ベタベタの「お涙もの」パターンというしかない。

それを、色々、ギャグっぽいセリフや、奇想天外な展開で面白おかしくまぶして見せるという趣向、この部分は、いわば装飾の部分であろう。

その装飾の部分に関しては、まあアイデア的に面白い部分もあると思う。

いくつかのエピソードで「偽者-本物」の関係を積み重ねていき、最後で「本当の家族愛」とは何なのかという問いかけをする。
その発想というか、仕掛け自体は、頭では理解できる。

しかし、骨格が「ヤクザの親分が…」では、何とも陳腐というか、古臭いというか、感覚として受け入れられい部分がある。

「のど自慢」(1998)などでも、「売れない演歌歌手が…」という設定自体のセンスの泥臭さに、どうしても馴染めないものがあった。

泥臭さが悪いという訳ではない。
泥臭い素材をうまくアレンジして、新しい面白さを引き出せるのだったら、それも良いと思うのだが、今までの作品を観る限り、あまり成功しているとは思えないのだ。
新しい面白さを狙いながら、出てきたものは、せいぜい、いつかどこかで観たような「新しさ」なのである。
「のど自慢」にしても「ゲロッパ」にしても、70年代の作品といわれても違和感はないように思われる。

「ゲロッパ」のセンスは、「のど自慢」より、むしろ後退しているようにさえ感じられる。

主役の西田敏行が、むくんでいかにも不健康そうな顔をしているのも心底笑えない理由の一つ。
明るいコメディ調の作品で、主役が元気そうに見えないというのは致命的であろう。

サリー(岸部一徳)のおどけている姿も、観ていて痛々しい。

過去、喜劇を得意としていた俳優達が中年になって出たコメディが、ことごとく、悲惨に見えるのも同じ理由だろう。

一部の役者だけではない。
映画全体に漂う「おっさん臭さ」、これはどうにかならないものだろうか?井筒監督。