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コクーン2 遥かなる地球

1988年、アメリカ、ダニエル・ペトリー監督作品。

最初から、続編やシリーズ化を意識して作るようなった昨今の一部大作などとは違い、かつて、前作のヒットにあやかって、急遽、続編が作られたような場合、その続編というものは、どうしても蛇足めいた内容になるケースが多かったように思える。

その典型例の一つが本作。

「老い」の問題を、エンターテイメントの形で優しく提示してくれた前作を、根底から否定してしまうような、何とも意味不明な内容になっているのである。

海に沈めたコクーンの側に、宇宙人が設置していたセンサーが、地殻変動の予測を知らせてきたので、急遽、コクーンを引き上げに来た…という、宇宙人側の論理は、まあ良いとしよう。

しかし、かつて、気持ちの整理を付け、家族達とも別れ、宇宙に飛び立って行った(おそらく、死を暗示していたとも思われる)老人達が、また一緒に戻って来るというのが、良く分からない。

何だか「やり残してきた事があったので…」などと、歯切れの悪い言い訳を最初の方でするのだが、結局、彼らがやるのは、海辺で遊んだり、バーで騒いだり、買い物を楽しんだり…という、要するに、バカンス感覚なのである。

地球に残してきた親友のバーニー(ジャック・ギルフォード)を励ましに…というようなエピソードも、確かに盛り込まれてはいるのだが、それが、帰還した老人達の本当の目的だったとも思えない。

つまり、分かりやすくいってしまえば、「里心が付いたので、戻ってきてしまった」という事らしい。

確かに、前作の結末を「不老不死の国へ一緒に行かないかと、宇宙人から誘われた地球人の老人たちが、現実逃避の(死から逃れる)ために付いて行った」…と、即物的に解釈すれば、そういう考え方が浅はかだったと気付き…という展開も、確かに納得できる。
その証拠に、この作品で最後に星の世界へ戻るのは、一組だけになってしまう。
他の二組は、地球に残る事を決意するのだ。
星へ戻るのは「間違った事」と気付いたようになっているのだ。

しかし、それでは、前作のラストの感動は何だったの?…という事になってしまう。

ジャック( スティーヴ・グッテンバーグ)とキティ(ターニー・ウエルチ)との関係にしても、前作を観ているものにとっては、進展しようがない事は分かっているので、新しい恋人への橋渡し役をキティが努めるという展開になっているが、これも「苦し紛れのアイデア」に見えなくもない。

特にわざとらしく感じるのは、ジョー(ヒューム・クローニン)の行動である。
彼は、ガンが再発した事が分かるのだが、星に戻れば、それは直る事は観客は分かっている。
地球に数日しか滞在しない事は、最初に説明されているので、何故、彼がわざわざ、医者で検診を受け、落ち込むのかがまず分からない。

これは、後半のドラマの伏線になっている事は理解できるが、後半のドラマは偶発的なもので、やはり、ジョーの前半の行動は不可解にしか映らないのである。

一時が万事こういう具合で、全ての展開が「わざとらしく」「取って付けたような」風にしか見えない。

これでは、盛り上がり感も薄く、ウォルター(ブライアン・デネヒー)が、最後の方で、チラリとしか登場しない辺りにも、スケジュール面での調整が付かなかっただけではないのでは?…と疑いたくもなる。

一作目は一作目、これはこれ…と、割り切って観る自信のある方はともかく、「コクーン」の感動を胸にとどめておきたい人には、むしろ本作は観ない事をお薦めしたい。