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西鶴一代女

1952年、新東宝+児井プロ、井原西鶴「好色一代女」原作、依田義賢脚本、溝口健二監督作品。

▼▼▼▼▼最初にストーリーを書いていますので、ご注意ください!コメントはページ下です。▼▼▼▼▼

物語は、年老いた遊女に落ちぶれたお春(田中絹代)が、一人の客にもありつけず、朝方、寺の境内で仲間達とたき火で身を暖めた後、五百羅漢像が納められた部屋に一人入り込み、その羅漢像の一つに、若かりし頃、互いに愛しあった勝之助(三船敏郎)の面影を見い出す所から始まる。

かつて、御所勤めをしていたお春は、菊小路家に勤める若党、勝之助から身分違いな愛の告白を受ける。
しかし、この二人の純粋な愛情関係が、やがてはお春の運命を狂わせる原因となる。

不義密通の罪にとわれたお春は、両親共々、都から追放されてしまう。

その後、松平家の妾として召し抱えられるも、世継ぎを生んだ直後、お春は殿の寵愛を受け過ぎると、暇を出される事に。

さらに、お春は、強欲な父親の命により、さらなる苦界へと身を落として行く事になるのだった…。

 

▼▼▼▼▼個人的なコメントはここから下です。▼▼▼▼▼

この作品の持つ古めかしさは何なのだろう?
原作が古い時代のものとか、作られた1952年が古いというのではない。

戦後に作られた映画にしては、そのテーマの古さがどうしても気になるのだ。

吉永小百合が絹代を演じた「映画女優」(1987)という作品では、戦後、再会した溝口(劇中では溝内)監督がこの作品を撮るに当たり、「古いタイプの女性を描こうと思います」「古い…」と綿々と説明をしているのに対し、絹代が、「新しいタイプでお願いします」とズバリ切り返すシーンがある。

その前に、二人共、少しづつ、時代から取り残され始めている事を告白しあっていたからである。

それでも、その古さにしがみつこうとする溝口、最後にはそれにしたがう絹代…。

このシーンが、全くのフィクションなのか、何がしかの事実にもとずいて描かれたものなのかは不明だが、本作を観ると、どうしてもこの辺の事情が気にかかってならない。

確かに、完成した作品を観ると、その濃密な物語世界の構築技術など、映画としての完成度の高さは理解できるものの、骨格となっているテーマ自体の古めかしさには、どうしても個人的に馴染めない部分がある。

女性の人生の凄まじさ、哀れさ、辛さ…、さらに、それらに翻弄されつつも、自らの意思にしたがって立ち向かおうとする女性のたくましさなどというテーマは、時代に関係なく、永遠のテーマなのかも知れない。

しかし、同時に、こうした描き方は、通俗なメロドラマなどでもさんざんやり尽くされてきたテーマではないのか?

名匠、溝口監督一流の演出と、名女優、田中絹代の熱演によって、本当に、戦後という新しい時代に作らなければならなかった作品と言えるのか?

世間一般的には、名作と称されている作品ではあるのだが、個人的にはどうしても疑問が残る。

冒頭、「50の女が20に見せ掛けようとするのがあつかましい」などと、遊女達が軽口を叩き合っているシーンがあるが、正直、本作で、田中絹代が若い娘時代を演じる姿には観ていて辛いものがある。

どうかすると、母親役の女優より老けて見えたりするのである。

あくまでも、芝居上の「約束事」として観ろという事なのだろうが…。

あるいは、一人の女性の一見古めかしく思える生き方をたどる事により、「諸行無常」というテーマを浮き彫りにする事が、溝口監督の真の狙いだったのかも知れない。

だとすると、その狙いはむしろ、この翌年に作られた「雨月物語」(1953)の方が成功しているのではないだろうか?