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空気のなくなる日

1949年、日本映画社、岩倉精次原作、伊東寿恵監督作品。
特撮は東宝合成課、後のピープロ社長、鷺巣富雄氏の手になるらしい。

 

▼▼▼▼▼最初にストーリーを書いていますので、ご注意ください!コメントはページ下です。▼▼▼▼▼

宇宙にはいくつくらい星があるのか…。
星空をバックにそんなナレーションから始まる。

肉眼では6000個、望遠鏡を使うと10億もの星が見えるそうである。

中央を丸くマスク合成した地球が廻っている。
雲はなく、日本が異様に大きく作ってあるのが特長。

続いて、太陽を中心に廻っている(立体アニメか?)太陽系の惑星の姿が、これまた合成で表現され、外宇宙から接近してきた他の星のせいで、地球の軌道が少し太陽から遠のいてしまったら…というナレーションに重なり、都市が大雪に埋もれて行く所、また、もし、太陽が今より少し燃え過ぎたら…というナレーションに重ね、都市が発火し、燃え尽きる姿が絵合成で表現される。(この辺の合成処理は見事)

ここから物語が始まる。
時は、明治42年、北陸地方のとある小さな村が舞台である。

唱歌「ふるさと」の歌声が聞こえる、天の川小学校のあるクラス。
月々、クラス全員の小遣いを貯金するようにしているらしく、若い女先生が各人からお金を集金し始める。

地主の大三郎は、貧しく金を払えない幸夫を全員の前でバカにするが、女先生がそれを諌める。

集まった貯金を町の郵便局に預けに行った小使いさんが、帰って来るなり、慌てて職員室に駆け込んでくる。

何でも、もうすぐ、空気がなくなると町で聞いてきたというのである。
ひげの校長始め、先生達はそんな小使いさんを、からかわれただけだと笑うのだが、後日、大空郡役所に出かけた校長は、役人達から「ハレー彗星接近」の新聞を見せられ、来る20日の正午から5分間、地球と太陽の間を通過する彗星の尻尾が地球をかすめる際、地球の空気が吸い取られると聞かされ青くなる。

空気がなくなると引力もなくなるのでは?…と想像する画面では、アップになった大人の足が地面から離れ、やがて、羽ばたく鳥や家と共に、大きな彗星に吸い込まれて行く特撮シーンも実にうまいというしかない。

学校に戻った校長は、後1週間後に迫った空気がなくなる日に備えるため、全校生徒を救おうと、翌日から、たらいや桶に汲んだ水に顔をつけて、一秒でも長く、息を止められるよう訓練を始める。

しかし、次々、倒れる子供達が続出、精神が弛んどると、自ら実践してみせた校長先生も、途中で目を廻してしまう。

その噂は、やがて村中に広がり、大騒ぎになる。

親戚一同で善後策を相談していた地主は、小使いさんから教えられ、町の自転車屋に出かける。

強欲な自転車屋(花沢徳衛)は、今まで一円20銭だったタイヤのチューブを一本150円で売り始めたのだが、それを地主が大金を払って全て買い占めてしまう。

タイヤを買う金など持たない村人達は、夜空に不気味に光る彗星の姿を毎日見つめていた。
どうする事もできないので、寺で念仏を唱えたりし始める者たちも…。

やがて、20日の朝が明ける。

貧しい幸夫は、朝食に尾頭付きの焼き魚と白まんまが出ているのに驚く。
母親も、最後の日だから、死ぬほど食べて良いと言い出す。

学校では、全員、女先生のオルガンに合わせ「螢の光」を歌った後、早々と生徒達は帰される。
一人チューブを巻き付けた格好で登校した大三郎は、幸夫を始め、クラス全員から相手にされなくなる。
全員、もう時期死ぬと思い込んでいるので、それまで言いなりになっていた大三郎のいじめに、もはや屈する理由がなくなったからである。

雨戸を閉めた家の中で、幸夫は着替えをさせてもらい、母親、幼い妹みちと共に、仏壇の前で手を合わせる。
そんな中、幸夫の父親や女先生などは、冷静さを失わず、普段通りの姿で正午を待ち受ける。

一方その頃、地主一家は、全員大量のチューブを身体に抱え込んで、それを吸い始めるのだった…。

 

▼▼▼▼▼個人的なコメントはここから下です。▼▼▼▼▼

教育映画ではあるが、後の東宝映画「妖星ゴラス」(1964)や「世界大戦争」(1961)などを連想させる、国産SFジャンルの先駆的作品といっても良いだろう。

半分ユーモラス、半分生真面目な作風で描かれており、純朴な地方の子供達の姿と美しい山並の美しさが、じんわり心にしみ入るような隠れた秀作になっている。

貧しい農家の子供、幸夫らが、子供ながらにあっさりと「死」を受け入れようとする辺りの描写は、明治時代の小作農の悲惨さを象徴する一方、この作品が戦後間もない頃に作られた事も関係しているのかな?…などと考えさせられたりもする。

海外の作品だったら、村人達が最後は教会に集まって神に祈る…となる所でしょうが、幼い妹を抱いて仏壇に手を合わせていた幸夫の母親が、正午になった瞬間、ぐっとその幼子を着物の袖で胸に隠すように抱き締める姿は、異様にリアルで、胸に迫ってきた。