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「 緒 絶 の 橋 」 に つ い て





 

 歌枕「緒絶の橋」の成立と伝承という項目が古川市史の下巻785ページからかなりの頁をさいて記述している。

 詳しくはそちらを参照されたいが(担当は古川市総務課市史編纂係・古川市のホームページからメールを送信すると連絡がつく。)、市史によれば初見は応徳三年の後拾遺和歌集とある。

 これが現在の緒絶橋のたもとに立っている歌碑である。

『みちのくのをだえの橋や是ならんふみみふまずみこころまどはす』

 その後、数々の歌人によって緒絶の橋が歌われてきている。

 さて、芭蕉と緒絶の橋或いは緒絶川との関係は,次の記述による。

 以下『おくのほそ道』からの引用である(市史下巻801頁)。以下()書きは編集担当の記述。

 十二日(五月)、平和泉(現平泉のことか?)と心ざし、あねはの松・緒だえの橋など聞伝て、人跡稀に、………………以下延々と記述が続きます。

 市史での解釈は平泉から松島へ行く途中姉歯の松や緒絶の橋によって行こうと思ったら、道に迷って石巻に出てしまった。

 というような記述であると。

 緒絶の橋と呼ばれるものは、現在の歌碑がたっているほかに、やはり緒絶川沿いの小さな橋があり、そこにも芭蕉ゆかりの緒絶の橋という石碑がたっている。

 当然後者は観光目的に立てられたものであろうと推測される。

 学者によっては、緒絶の橋は現在のところでないという方もおり、どうも実はそちらの説が正しいらしい。

 緒絶川というのは市史の記述にもあるように実は極めて長い川である。

 ただし、市民が通常緒絶川をイメージする場合川端を中心する極めて短い部分である。

 その学者の言う話では本当の緒絶の橋は現在の町の外れにあったという。

 旧村でいうと東大崎村管内に極めて近いらしい。

 ただその先生もあえて、現在の場所と違うということを言いたてることもなく、観光的には現在のところでいいのであろうとコメントしている。

 実際、緒絶橋のすぐ近くには緒絶の館が建設され、市民のギャラリーとしてにぎわっている。


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