ミナルディ名場面集

ミスターミナルディとは?

「ピエル・ルイジ・マルティニ」をなぜ「ミスターミナルディ」と呼ぶのか?F1生涯をミナルディで始め、
ミナルディで終えたピエル・ルイジ・マルティニの軌跡を追ってみたいと思います。

ジャンカルロ・ミナルディの甥っ子であるピエル・ルイジ・マルティニは1961年4月23日に誕生。
おじのジャンカルロ・マルティニも元F1ドライバー、弟のオリバーもミナルディテストドライバー、
周囲はレーサー一族で、必然的にレース野郎として育っていくわけです。
ミナルディチームの監督であるジャンカルロ・ミナルディはもちろん、甥っ子であるマルティニを
かわいがり、贔屓にし、ミナルディF3,F2時代は積極的にマルティニにドライブさせていました。
同期生としてミナルディF2をドライブしていたドライバーは、他にナニーニ、アルボレートなどがいます。
アルボレートはF2ミナルディBMWでF2チャンピョンを獲得しました。
(minardiオフィシャルにも当時の写真がありますな)
上記のドライバー達がこれらの理由により「ミナルディファミリー」と言われる由縁でもあり、
「ミナルディファミリー」という言葉自体が誕生した由縁でもあります。
皆さん!広辞苑で「ミナルディファミリー」を引いてみてください。載っていません。

そして「ミナルディチーム」は順調にアンダーカテゴリを駆け上がり、モータースポーツの最高峰F1へと
登り詰めたのです。初年度は1カー体制で、ジャンカルロ・ミナルディはドライバーとしてマルティニを
起用する事を決定しました。決定と言うより、最初からマルティニを乗せると決めていたのかもしれま
せんね。そう、ジャンカルロ・ミナルディは「チーム」と一緒に「マルティニ」もF1へ持ってきたのです。
84年にスポット参戦としてトールマンをドライブしていますが、フル参戦として事実上ミナルディチームが
デビューチームになります。

一発の速さは折紙付き、くりっくりのくせ毛で、笑うとクシャクシャになる顔はプロストそっくりで、
背の低い(165cm)容姿などから「プチプロスト」なんて言われていた時期もありました。
ペ・ヨンジュンに似ていたら「プチペ」です。

しかしいくらジャンカルロの親戚でさらに才能があるとはいえ、タップ〜リ持参金を持つドライバーには
かないません。参戦当初から資金不足に悩まされていたチームはマルボロマネーをたっぷり持ち
込んだチェザリスと新人ナニーニを起用します。
1カー体制でチームメイトが居ないのでマルティニ本人の力量比較が出来なかったという要因もあり、
周囲のマルティニに対する評価は低かった(評価出来なかった)という事実もあります。
その為、マルティニはミナルディドライバーの座を奪われ2年間F3000に戻る事を余儀なくされます。
チャンピョンこそ逃しましたが、後にマルティニは大きく成長して再びミナルディに戻ってくるのです。
余談で、私事ですが、ミナルディ応援サイトをやっていると、
「チャンピョン」なんて単語を使う機会が全くありません。「チャンピョン」なんて単語、ホームページ上で
何年ぶりに書いた事でしょう。ここぞとばかり「チャンピョン」を書きまくってよろしいでしょうか?
チャンピョンチャンピョンチャンピョンチャンピョンチャンピョンチャンピョンチャンピョン
チャンピョンチャンピョンチャンピョンチャンピョンチャンピョンチャンピョンチャンピョン
チャンピョンチャンピョンチャソピョソピョンヤンンチャンピョンチャンピョンチャチンポコ
「チャンピョン」ですか?「チャンピオン」ですか?
中華料理屋で「チャンピョン1つ」と注文したら、なにやら美味しい食い物が出てきますか?
とにかく「チャンピョン」なんて言葉、私には無縁ですから。残念!。

そして大きく成長してチームに戻ってきたマルティニはチームにとって初めてのポイントをもたらします。
(詳細はこのホームページや他のサイトを参照して頂くとして)
それからモリモリと成長し続けミナルディの顔になっていくわけです。
さらにマルティニは次期フェラーリドライバーとしてフェラーリ内で候補として挙がっていたのは有名な
話です。結果的にはフェラーリをドライブする事は無かったのですが、かなりマルティニは周囲からも
期待されていた事がわかります。

91年にサンドラさんと結婚。
夜のお仕事もさぞかし、同年に搭載したフェラーリV12気筒のように、甲高い音でブイブイいわせた
おかげ…なのかはわかりませんが、後に待望の娘マリアちゃんも誕生。
イタリアの誇りであるフェラーリエンジンを操れる事についてマルティニ本人も非常に喜んでいた
そうです。気さくな性格で笑顔を絶やさず、でもなぜかあまり目立たない存在。お祭り男のタルキーニと
仲が良く、あだ名は「ピエロ」と呼ばれ、周囲ともうまく溶け込んでいた誰もが好感をもてる男でした。

なぜマルティニは他チームへ移籍しなかったのか?
なぜマルティニはミナルディばかりドライブし続けたのか?
それは「イタリア語しか話せなかった事」からです。
ドライバー自身の実力はともかく、ビジネス能力も、グローバルに展開する力も、生き残りとトップ
チーム移籍にかけて重要なファクターになるのですが、マルティニはイタリアのチームやイタリアの
企業との交渉を転々とし続けます。92年に移籍したスクーデリアイタリアもイタリアのチームですね。
ジュゼッペ・ルッキーニさん、お元気でしょうか?
そのスクーデリアイタリアは94年にミナルディと合併し、ミナルディスクーデリアイタリアが誕生しますが、
後95年にはミナルディを離れ、スクーデリアイタリアチームはGT選手権等のカテゴリへ行きました。
(後年、F1を離れたマルティニはまたスクーデリアイタリアチームのドライバーとなってドライブしていま
 した。イタリアチーム大好きの(?)マルティニです。)

「新人」としてミナルディからデビューしたマルティニは、
「ベテラン」となってミナルディチームを最後にF1人生に幕を閉じます。
現在はF1を去りルマン等でたまに見かけるマルティニ。
そんな彼のF1人生は「よくいる目立たないイタリア人ドライバー」で終わってしまったのかもしれません。
しかし我々ミナルディファンにとっては「ミスターミナルディ」と呼ぶにふさわしい人物だと思っていますし、
ジャンカルロ・ミナルディ氏にとってもマルティニと一緒に歩んだF1シーズンは、チームをも成長させて
くれた、貴重なかわいい甥っ子ドライバーだったと言っても過言ではありません。
ミナルディチームにもっともポイントを運んでくれた男、マルティニ。
マルティニファンでなくとも、ミナルディファンであれば、記憶にとどめておきたい人物です。

ミナオタは黙ってマルティニ。ミナ通も今宵もマルティニ。

今度飲み屋で、マティーニをたのむ時、
「マスター、マルティーニを一杯。」
と頼んでみてください。きっと、
「あぁ、お客さん、通ですね。」
などと答えが返ってくるはずです。




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