1999.11.14 |
我が家では、屁は、し放題である。 それが当たり前の環境で何十何年生きてきて、何を今さら気取ることができよう。「なるべく窮屈なことは願い下げにする」というのは、生きていく上での基本中の基本である。 しかし、我が家といえど、しばらく前まで「ゲップ」はそうではなかった。オレは、さまざまな音量と音質と音響で、さまざまな「ゲップ芸」を体得している。かつ、日々是鍛錬、より一層の向上を目指して日夜努力しているのだ。ところが連れ合いは、そんなオレの涙なしには語れない努力をあざ笑うばかりか、友だちが痴漢された女子高生が痴漢をねめつけるような目でゲップ直後のオレを見るのである。 ところが最近、一抹の寂しさというか、なんともいたたまれない思いに浸ってしまうのだが、当初はオレのゲップを嫌いぬいており、「私はゲップなんてしない」とほざいていた連れ合いが、どうやら「門前の小僧作用」のせいか、食後などに「ああ、おいしかった」の最後の「た」のところをゲップで代用するまでに成長してしまった。 我が家では、オレだけが人間国宝、オレだけが免許皆伝、オレだけがたしなむことを許されていたはずのゲップが、もはやオレだけのものではなくなってしまったのである。 近代化とは知の伝播であり、民主化とは聖域の消滅を意味する。オレの特権が失われていくプロセスは、すなわち倦怠期への直線コースとも言えよう。 |