人物辞典No.2

周瑜公瑾−呉の礎を築いた智将
出身地盧江郡 幼名
生きた期間175年〜210年享年36歳 知謀98 武勇86 人望97
容姿容貌端麗にして優雅

らくちん頭出し
【第1話】断金の交
【第2話】名君 孫策死す!
【第3話】孫権への忠誠
【第4話】諸葛亮現る!
【第5話】赤壁の戦い前夜〜周瑜と諸葛亮
【第6話】赤壁の戦い〜雌雄を決した周瑜の計略
【第7話】諸葛亮との対決


断金の交
 周瑜は少年時代、後に江東の小覇王と呼ばれる孫策と相識し、意気投合する。
 孫権死後、しばらく袁術の元にいた孫策が再び江東に帰ってくると、彼と共に江東攻略を計画する。
 2人は喬姉妹(絶世の美女で呉の二喬と呼ばれた)をそれぞれ娶ったため、孫策を兄、周瑜を弟として義兄弟になった。 世間からは「孫郎」「周郎」と呼ばれ、人々から慕われる。
 その一方で賢人を招くことを孫策に勧め、後に呉の二張と呼ばれるようになる文官、張昭・張絋を幕下に加えた。
 また、戦場でも比類なき強さを見せつけ、曲阿に居座っていた劉ヨウ討伐で功績を上げたほか、呉郡の厳白虎討伐にも 参加するなど、常に孫策の片腕として行動する。

名君 孫策死す!
 だが、突然の不幸が彼を襲うことになった。当時、周瑜は巴丘の守備に当たっていた。
 周瑜という知謀の士と別行動を取っていた主君孫策は、無謀にもただ一騎で行動していた。 まだ平定してから日も浅く、帰属させた武将や民心を掴み切れていなかった彼には敵が多かった。新興勢力の台頭には、 誰もが妬み心を抱くものである。以前、江東を攻略したとき殺した許貢の配下によってふいを突かれ、孫策は瀕死の重傷を 負ってしまう。
 この、軍閥の首領としてはあまりにも軽率な行動か、後の中国史を大きく変えることになった。
 周瑜は急ぎ見舞いに向かうが、その途中、孫策の訃報が彼の元に届けられた。容体が思わしくないにもかかわらず、 無理に出陣しようとしたことが原因らしい。
 当時、中原では曹操が台頭し、北の袁紹と一触即発の状況にあった。そこで袁紹は戦いを有利に進めるために、江東で 力を持ち始めていた孫策に使いを送り、背後から攻めさせようとしたのだ。もともと隙あらば曹操の本拠地許昌を奇襲し、 玉璽と献帝を奪おうと考えていた孫策、この誘いを好機とみて出陣しようとしたのだ。
 しかし受けた傷はあまりにも深かった。しかも于吉という仙人を些細な理由で殺してしまったため彼にまで呪われる始末。
 結局、その短気で勇猛な性格が孫策の命取りとなってしまった。
 周瑜は2人で協力して天下を統一しようという大望を持っていたため、その死を痛く悔やんだ。

孫権への忠誠
 孫策死後、弟の孫権が跡を継いだ。たとえ孫策の弟といえども器量の小さい人間であれば仕える気などない周瑜だったが、 孫権の人の意見によく耳を傾ける性格や、彼もまた兄と同様大きな志を持っていることなどを知り、進んで忠誠を誓った。 同時に以前、財政的に困っていたとき、援助をしてもらった魯粛を招き入れ人材を補強する。
 孫策と異なり孫権は落ち着きがあり、決して戦場で最前線に立ち果敢に攻め込むような性格ではなかったが、彼は部下の 使い方が非常にうまかった。
 そんな孫権に奮い立った周瑜は、207年10月、荊州へ進撃を開始する。荊州の牧劉表の配下黄祖は、孫策・孫権の父孫堅の 仇であり、荊州平定は呉の国是と言えるほど重要なことであった。翌年には、黄祖の部下で猛将(ただし当時は賊の親玉程度 にしか見られていなかった)を甘寧仲間に引き込むことに成功し、大勝をおさめる。
 孫権は周瑜の力量を高く評価、周瑜をハ陽湖に留め水軍の訓練を命じ、同時に劉表に備える。

諸葛亮現る!
 荊州を曹操に追われた劉備は、呉と手を組んで魏に対抗しようと、軍師諸葛亮を孫権のものに送った。
 一方の呉では、天子を擁し中原を支配している曹操には勝てないと見て非戦派が降伏を主張、一方、魯粛はただ1人開戦 を主張していた。孫権は悩んだ末、兄孫策の遺言を思い出し、周瑜をハ陽湖から呼び寄せた。
 周瑜は初め沈黙を守っていたが、諸葛亮に挑発され激怒する。曹操の三男曹植の作品である「銅雀台の賦」に「呉を征服 したあかつきには二喬と謳われた美女2人を楽しみたい」とあり、これを指摘されたのだ。自分の妻と先主の妻を魏の曹操にくれ てやるなどできない周瑜は開戦論に傾倒する。また魏軍は水上の戦いになれておらず、誘い込めば必ず勝てるとも考えていた。
 しかしその一方で、諸葛亮の知謀を恐れた周瑜は、彼の暗殺を計画するが尽く見抜かれてしまう。ならば劉備を殺そうとす るが、今度は関羽が付いていて果たせなかった。

赤壁の戦い前夜〜周瑜と諸葛亮
 三江口で勝利した周瑜だが、もと荊州の牧劉表の配下だった蔡瑁・張允が水軍の訓練をしていることを知り、危機感を抱く。 魏軍はともかく荊州の武将および兵士は水上戦に慣れており、彼らに指揮を取られたら苦戦を強いられるのは目に見えている。 たまたま曹操よりスパイとして送られていたショウ幹がいたので、これを逆用して蔡瑁たちの謀反をでっちあげ、曹操は計略 とも知らずに2人を殺してしまう。
 一方、矢の不足に悩む周瑜は一計を案じ、諸葛亮を呼ぶ。10日以内に10万本の矢を集めてほしいと途方もない要求を出し、 これができなかった罪で彼を始末しようとする。しかし当の諸葛亮は3日もあれば十分と答え、実際10万本の矢を3日で集め てしまう。諸葛亮は霧の中に藁束を積んだ船を曹操軍の方へ進め、敵が呉軍だと思って射った矢が藁束に程よく突き刺さった ところで退却してきたのだ。この事を知った周瑜は諸葛亮の知謀にますます警戒するようになった。

赤壁の戦い〜雌雄を決した周瑜の計略
 周瑜の計略により蔡瑁らを殺すことに成功し、さらに諸葛亮の働きで矢の不足も解消されたが、100万と豪語する魏軍に 立ち向かうのは僅か3万。劣勢は明らかだった。
 その時、老将黄蓋が一計をもって周瑜の元を訪ねた。彼は孫堅時代からの武将であり、歳も周瑜より大分上だった。 実戦の経験も、これまで上げた功績も上である。にも関わらず、孫権は周瑜に総大将を命じている。もし器量の小さい 武将だったなら、当然不満を抱くだろう。
 黄蓋はこれを計算し、自分と周瑜が仲違いをしたように見せ、曹操に内通する素振りをしたいと進言する。その際、 敵を欺くために、自ら進んで周瑜に鞭で打たれるとも言った。周瑜は初めこの老将の言葉に戸惑ったが、勝利を掴むため にはそれしかないと感じ、わざと魏のスパイがいる前で実行する。
 2人の迫真の演技に騙された曹操は上機嫌で了承し、つい緊張の糸が切れてしまう。
 その一方で、諸葛亮と並び評されるホウ統をショウ幹に同行させ魏に送り、船の揺れを抑えるために船同士を鎖で結ば せることに成功する。これで火計の準備は整った。
 火計に必要な風が吹いたところで、黄蓋率いる高速艇が発進、曹操軍の船を尽く焼き払った。赤壁での戦いは呉の勝利は 決定的になる。
 ともなれば、諸葛亮はもはや不要。丁奉と徐盛に命じて殺させようとするが、一足早く趙雲が迎えに来ていたため、諸葛 亮は自軍へと戻った。

諸葛亮との対決
 赤壁で快勝を収めた後、周瑜は引き続き南郡を狙う。しかし、劉備も狙っていることを知り、ショウ欽を派遣し、南郡を 守っていた曹仁と一進一退の攻防を繰り返す。その隙に南郡は諸葛亮に取られ、襄陽も関羽に取られてしまった。
 荊州の領有にこだわる周瑜だったが、劉備が益州をとったあかつきには荊州を呉に返すという言質を魯粛が持ってきたため、 一応柴桑に引き下がった。
 しかし一方で、劉備を呉に呼び寄せ、孫権の妹と結婚させたうえで彼を人質にして荊州を返還させる計画を立てるが、諸葛 亮はその動きを尽く読んでおり、結果的には劉備には逃げられ、妻は奪われと惨澹たる結果になってしまった。
 周瑜は諸葛亮にかなわぬ自分に憤慨し、「天はなぜ、この周瑜の他に諸葛亮をも生みたもうたのか!」と叫んでこの世を 去った。

●筆者から一言●
 周瑜は僅か36歳で亡くなっているため、能力の全てを出し切れなかったような気がする。また、諸葛亮との対決では、 魏の司馬懿や呉の陸遜になども見られるように惨澹たる負け方をしているが、これはあくまでも演義であって正史ではない。 実際は非常に優れた知謀の持ち主であったと思われる。
 また、周瑜の死は謎めいており、一説には諸葛亮によって暗殺されたとも言われている。周瑜が諸葛亮を恐れたように、 諸葛亮もまた周瑜を警戒していたのではないだろうか? 矢傷が元で死んだことになってはいるが、傷を受けてから亡くなる まで日にちが経っていることや、周瑜が死んだとされる場所が劉備と呉との緊張地域(つまり国境近く)であったことなどから 推測されている。持病持ちと言う記載もない若き名将の突然の死は、実にミステリアスである。
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