人物辞典No.4

夏侯惇元譲−曹操の信頼が最も厚かった男
出身地沛国ショウ県 幼名
生きた期間?年〜220年享年?歳 知謀63 武勇90 人望82
容姿戦場にて左目を失う

らくちん頭出し
【第1話】曹操に従う
【第2話】巨漢典韋との出会い
【第3話】濮陽で呂布に敗れる
【第4話】献帝を保護
【第5話】左眼を食らう
【第6話】官渡の戦いに参戦
【第7話】無名軍師、諸葛亮との対決
【第8話】赤壁、そして漢中へ
【第9話】漢中争奪戦〜「鶏肋」の故事
【第10話】猛将の死


曹操に従う
 夏侯惇は普段は無口で大人しい少年だったが、ひとたび怒ると手が付けられなかった。14歳の時、武術の師を辱めた者を 怒りにまかせて殺してしまい、お尋ね者となった彼は各地を転々としていた。
 しかし曹操が漢王朝の中枢で好き勝手なことをしている董卓を討つため義兵の募集をすると、族弟の夏侯淵と共に兵1000 人を率いて馳せ参じた。曹操の父曹嵩は元夏侯の姓を名乗っており、この頼もしい縁者の訪問に曹操は大いに喜んだ。
 董卓が袁紹を盟主とする連合軍に勝てないと見て洛陽を焼き払い、長安へ遷都すると、夏侯惇は曹操に従って董卓を追撃 する。しかし待ち受けていた呂布にはかなわず曹操軍は大敗を喫してしまう。窮地を何とか逃れようとする曹操と曹洪が敵 将徐栄に襲われたところに夏侯惇は淵と共に現れ、徐栄を突き殺し、さらに敗軍の将兵をまとめて河内に引き上げた。

巨漢典韋との出会い
 曹操が優れた人材を欲しがっていることを夏侯惇はよく知っていた。
 ある日、怪力の持ち主典韋を見つけるなり、彼を曹操に推挙した。典韋は曹操のボディガードとして、活躍することになる。
 曹操の父が徐州の太守陶謙の配下によって殺されると曹操は徐州に攻め込むが、このときは夏侯惇・典韋・于金の3人が先鋒を つとめ、功績を挙げた。この時、陶謙の救援に駆けつけた九江の太守辺譲を、曹操の命令で殺している。続いて陶謙軍と対峙 した際は彼を捕らえようとするが、突然起こった突風によって取り逃がしてしまう。

濮陽で呂布に敗れる
 曹操が陶謙を攻めている間に、呂布が攻めてきたという報告がもたらせると、曹操は呂布を討つため急いで退却する。  夏侯惇は曹操と共に呂布の立て篭もる濮陽城を囲うと、地元の富豪田氏に導かれて城に突入することになった。夏侯惇は 左手から進入したが、陳宮の火攻めに敗れ、ケン城に逃げ込んだ。

献帝を保護
 董卓が死んだ後、彼の部下だった李カクと郭シは献帝を戴き好き勝手なことをしていた。この2人が計略によって争い始めると、 献帝は混乱に乗じて都を脱出した。李カクと郭シは献帝がいないことに気付くと、事の重大さを考えて停戦し、献帝の後を追う。  以前より帝を擁して天下に号令しようと考えていた曹操はこの好機を逃さず、夏侯惇を先鋒とし献帝の聖駕を保護し、さらに 曹洪と二手に分かれて李カク・郭シの軍を迎撃し勝利する。
 その功績が認められ、許昌に戻ったとき将軍に任ぜられた。

 宛城の張繍を攻めたときは先鋒をまかされるが、火攻めに遭って敗れる。さらに宛城の付近で夏侯惇の部下が略奪を働いてい たので、于金によって兵を殺される事件が起こった。
 一時は于金が謀反を起こしたという噂が立ったが、事の真実を知った曹操は于金を誉める一方、夏侯惇には厳重な注意を与え た。

左眼を食らう
 曹操が呂布と共同して袁術を攻めた際は、于金と共に先鋒をつとめた。
 その後、呂布と争うことになったが、呂布配下の名将、高順と戦っている最中に、曹性に左眼を射られてしまった。戦いが 押され気味のうえ猛将夏侯惇が倒れるようなことがあれば、兵士たちが一気に浮き足立ち総崩れになることは目に見えていた。
 夏侯惇はこぼれ落ちる目玉を拾うと、「精は父から、血は母からもらったもの。捨てるわけにはいかぬ」と叫んで目玉を呑 み込み、曹性目掛けて突進、瞬く間に斬り殺してしまう。
 この奮戦によって兵士たちの士気は高まり、呂布軍の猛攻をなんとかしのぐことができた。
 夏侯淵に守られて帰陣した後もなお戦場に出ようとするが、曹操に許昌で治療するよう言い渡されるとその命に従い戦場を 離れた。

官渡の戦いに参戦
 呂布を倒し劉備を中原から追い出した曹操だったが、そこへ河北の雄、袁紹が南下してきたという情報が入る。
 夏侯惇は曹洪と二手に分かれて袁紹の陣を攻めたてるが、多勢に無勢、大敗を喫して帰陣する結果になった。
 やがて戦線が膠着状態になったとき、袁紹配下の許攸が投降してきた。彼の情報を信じ、曹操が精鋭を率いて鳥巣を攻撃し た際は留守を固め、攻撃してきた袁紹軍を破る。
 その際、投降してきた張コウ、高覧の2人を疑うが、曹操は彼らを信じ、厚遇することになった。彼らは曹操の期待に応え、 袁紹軍を苦しめた。

無名軍師、諸葛亮との対決
 袁家を滅ぼし河北を平定した曹操は、次に荊州に狙いを付けた。当時荊州は戦乱の世にあって比較的戦火から免れており 州牧劉表は優柔不断な人物ではあったが評判は良かった。

 まず手始めに曹仁たちを派遣するが、大軍を擁していたにも関わらず劉表の客将としていた劉備によって大敗を喫してしま った。劉備には当時無名であったが徐庶という軍師が付いていたためだった。
 曹操は母を人質に彼を呼び寄せる事に成功する。その徐庶が劉備に下にいる諸葛亮を「私が蛍の光だとすれば、満月ほどの 人物だ」と評すると、その言葉に挑発された夏侯惇は新野に攻め込む事を志願する。曹操もこれを了承した。
 しかし、新野の手前、博望ハで諸葛亮の火攻めに遭って敗れ、あえなく許昌へ逃げ帰る事になった。

 その後、曹操自ら出陣し、その第三隊として劉備の攻撃・追撃に参加。他の諸将と共に長坂橋まで追撃するが、そこで仁王 立ちして待ち構えていた張飛に圧倒され立ち止まってしまう。以前、諸葛亮の計略にはまった記憶が脳裏を過ぎり、これも罠 ではないかと疑う。そうこうしている内に橋が落とされ、張飛には逃げられてしまった。

赤壁、そして漢中へ
 赤壁では水陸路都接応使(すいりくろとせつおうし)をつとめるが、戦いは周瑜・黄蓋の連環の計にはまって大敗してしまう。  その後、襄陽の守備を任されるが諸葛亮に城外に誘い出され伏兵に遭い、まんまと襄陽を乗っ取られてしまうという醜態を 晒してしまった。
 その後、曹操が蜀・呉の討伐を参謀の賈と曹仁に諮ると、2人によって夏侯惇が呼ばれた。夏侯惇は漢中の張魯をまず滅ぼ す事を進言し、曹操はその案を入れた。
 漢中征伐では曹仁と後詰めを任され食糧の運搬をつとめた。
 管輅が火災の予言をすると、夏侯惇は巡邏(じゅんら)を命じられる。実際に反乱が起こると韋晃らを捕らえ、さらに放火にも 冷静に対処した。

漢中争奪戦〜「鶏肋」の故事
 漢中が蜀によって奪われると、夏侯惇は曹操に従って出陣し、先鋒をつとめる。しかし蜀軍の抵抗は激しく戦線は硬直した。 この時は曹操も冷静さを欠いており果敢に攻めては伏兵に遭って何度も敗れた。
 しかし、何の成果もないまま軍を退けば、蜀の人々の物笑いになると拘るあまり、曹操も軍を引けないでいた。
 たまたま夜のお触れを曹操に聞きに行った時、曹操が口にした「鶏肋」と言う言葉を全軍に伝えるが、意味が分からない。
 そこで同僚で知恵者の楊修に尋ねたところ、陣払いの命令がまもなく発せられるだろうと言われ、楊修と共に皆に先駆けて 自分の部隊に早速用意をさせた。ところがこれが曹操の逆鱗に触れた。「軍の士気を下げた」として楊修は斬り殺され、夏侯惇 も殺されかけたが、群臣の諌めによって許された。

猛将の死
 曹操の臨終に呼ばれたが、以前殺した伏皇后らの霊が現れて昏倒してしまう。
 跡を継いだ曹丕が曹操の墓を盛大に祀っている最中に夏侯惇の危篤が伝えられると、曹丕は急いで駆けつけるが、すでに亡く なっていた。

●筆者から一言●
 夏侯惇とい人物は冷静沈着なのか、勇猛果敢なのかよく分からない人物である。普段は無口で大人しいが師匠を辱めた者を かっとなって殺し、謀反者が火災を放火をすれば冷静に対処するのに戦場では軽率にも誘い出されて火攻めに遭う。
 一つ言える事は非常に誠実であり、実直かつ忠義に厚い男であったと言う事だ。師匠の件にしても、曹操に寝室に上がる事を 許された件でも、彼が如何に上の者に対して忠義に接していたか分かるエピソードである。
 しかし、やはり彼を一番有名にしたのは、左眼を失った時の行動だろう。自らの目玉を食らい、その場で敵将を斬り殺すなど ということは常人ではできないことだ。彼は戦いでは奮戦するものの敗北する事も多かったが、この事件があまりにも衝撃的で あるために、やはり当時屈指の猛将というイメージが非常に強い。
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