漢中攻防戦

 曹操は既に漢中を手にしていたが、劉備ら蜀にのってはまさに喉元に突きつけられた短刀のような存在であり、 放置することはできなかった。
 劉備は法正の建議を受けると、直ちに漢中に軍を進める。
 しかし、当初は曹洪に呉蘭、雷銅が討たれるなど戦局は思わしくなかった。

 劉備自身は陽平関に迫り、魏の漢中の守将、夏候淵、張コウと対峙するが、天然の要害に守られた魏軍は なかなか落ちない。そこで成都に援軍を求めた。
 翌年、劉備は陽平関を出て漢水を渡り、東へ進軍して定軍山に布陣した。
 夏候淵が攻め寄せたところを、法正の指揮の下黄忠が攻めかかり、見事夏候淵を討ち取ることに成功する。

 こうなっては黙っていられないのが曹操である。長安から自ら軍を率いて漢水の北岸に布陣した。
 劉備は要害を固めて持久戦に持ち込むと、黄忠に曹操軍の兵糧庫を襲撃させた。しかし、黄忠の帰りが遅いことを心配した 劉備はまもなく趙雲を派遣、攻め寄せてきた魏軍に弩を一斉に発射し敗走させることに成功する。
 曹操の劣勢を聞きつけた曹操の息子・曹彰が駆けつけた際は、劉備の養子である劉封と一騎討ちをし僅か三合で 退けるが、大勢を変えることはできず、魏軍は撤退する。

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