壺関の戦い

 袁紹の息子達は跡目争いを続け、次第に勢力を弱め、曹操に吸収されていく運命を辿る。高幹もその一人であった。
 曹操が袁尚・袁譚を攻撃した際は、南匈奴および郭援羅と共に黄河の東部を侵略している。

 205年、高幹は并州で曹操に反旗を翻す。これに河東の衛固らが呼応したため、曹操は杜畿(トキ)を派遣してこれを防いだ。
 206年、遂に曹操は高幹討伐の兵を上げる。しかし、壺関口の要害を高幹が堅守しているため容易に攻め落とすことはできない。
 そこで曹操は、袁家から曹操に降った呂曠、呂翔らが内応を偽って高幹に曹操陣営への夜襲を勧める。この計略は見事に的中し、高幹が おびき出されたところを李典、楽進が壺関を攻め奪取したため、高幹は敗走する。

 高幹は荊州に逃れようとしたが、上洛都尉の王[王炎]によって逮捕され、斬首された。

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