陳の戦い

 袁術は、自分が陳国相に任命した袁嗣が前年曹操に降伏したため、失地回復の意味も含めて陳に侵攻した。
 元々皇帝になるのは自分だと思っていた袁術は、「袁」という姓が「陳」から出ていること、陳は土徳によって 天下を治めた舜の後裔であることから、火徳の後を継ぐ土徳の自分こそが治めるに相応しいと考えたと言われる。

 袁術は兵糧にも苦労しており、物資豊かな陳の相・駱俊に交渉したが拒否されたため、暗殺して陳を攻め取った。

 しかしこれは曹操の逆鱗に触れることになり、曹操が自ら討伐に赴くと、袁術は恐れおののき、李豊、楽就らを残して 逃げ出す。これでは兵士の指揮が上がるはずもなく、残った軍は尽く曹操によって殺された。

 この敗北によって袁術の勢力は壊滅し、逃走の末、部下にまで見限られる始末。
 袁紹を頼る途中、199年に病気を発し亡くなった。

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