界橋の戦い

 董卓を洛陽から追い出すことにこそ成功したものの、長安で依然として勢力を誇る董卓には袁紹は軍事力で とても対抗できなかった。基盤とする地がなかったのである。

 そこでまず董卓が帝を擁していることを真似て劉虞を帝に即けようとしたが本人が固辞したため実現しなか った。
 袁紹のこの動きに危機感を抱いたのが袁術と公孫サンである。特に袁術は自らが皇帝を僭称しようという野 望を抱いていたので、反発も大きかった。

 そんな折、袁紹と袁術が小競り合いをした際に、公孫サンの弟が袁紹配下の矢に当たって死んだため彼は激 怒し、前年191年に盤河に出陣し、一度袁紹を破っている。

 そこで袁紹は和睦を考えるが怒りの収まらない公孫サンは執拗に攻撃を繰り返してくる。

 こうして192年、両者は界橋でついに戦火を交えてのである。
 公孫サンは歩兵3万の他に、自慢の白馬隊1万を擁したのに対し、袁紹軍は僅かに数千。戦いは当時河北の第 一人者として名の高かった公孫サンの圧勝に終わるかに見えた。
 しかし結果は袁紹の張った伏兵に公孫サンが引っかかり袁紹の快勝となった。

 公孫サンは本陣を完全に崩され逃げ延びようとするが、途中で袁紹配下の猛将文醜に追いつかれ殺されかか った。そこへ「白馬将軍」の威名に引かれてやってきた趙雲が現れ、文醜と一騎打ちをして引き分け たために難を逃れることができた。

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