宦官誅殺

 溯ること166年と169年、党錮の禁によって「清流派」と呼ばれた在地豪族出身の官僚が一掃されると、「濁流」 と呼ばれた宦官達と、王の母后およびその親戚である外戚によって、政治は牛耳られていた。
 184年の黄巾の乱に際し、時の皇帝、霊帝の何皇后の異母兄・何進は大将軍に任じられると、政治の権力をめぐって 宦官張譲ら十常侍らと争うことになった。

 霊帝が崩御し少帝が即位すると、何進は4代に渡って三公を輩出した袁紹らと宦官誅殺を計画する。
 しかし、宦官と親しくしていた何皇太后が反対すると、袁紹たちが勧めたにもかかわらず何進は計画を中断してしまう。

 しかし、何進が自分達を除こうとしていた事を知った宦官達は危機感を抱き、何進をおびき寄せ、まんまと殺害してしまう。

 怒った袁紹・袁術は宦官誅殺を叫ぶ。盧植は何進を殺した段珪、張譲らを追いつめついにこれを殺した。

 その一方で、生前何進が宦官勢力を抑える目的で地方豪族に飛ばしていた檄に呼応した董卓が、大軍を率いて都に入ってきた。
 外戚の何進も宦官もすでになく権力の中枢に空白が空いるのを見て取った董卓は、都に入る途中で救った少帝と陳留王を立てる と共に、呂布を裏切らせ邪魔者の丁原を殺し、権力を掌握する。

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