益州騒乱

 河東郡の白波谷で黄巾残党の郭太(かくたい)らが挙兵すると、并州刺史の張懿が殺されるなど、黄巾賊の 勢力は健在であった。
 その情勢を憂いた劉焉は「清廉な重臣を選び、軍権を持つ州牧に任じるべき」と建議し、自らは益州の牧 となった。

 この頃益州では馬相らが刺史・太守を次々と殺害し、天子を称するほどの勢いを持っていた。
 しかし、劉焉が到着する直前に賈竜によって滅ぼされた。

 劉焉は南陽・三輔の民数万を吸収し「東州士」と号した。この武力を背景に益州豪族と事を構える一方、 懐柔策を用いて益州を平定する。

 また、その一方で張魯を漢中に派遣して中原との関係を絶ち、独立国家建設の野望を抱くようになった。

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