涼州争乱

 涼州では後漢王朝を通して非漢民族が強制労働を強いられるなど厳しい状況にあった。
 このため、黄巾の乱が勃発すると、連鎖的に不満が爆発する。それをうまく利用したのが辺章、韓遂だった。

 彼らは共同して涼州刺史左昌、金城太守陳懿、護羌校尉夏育らを殺害すると、軍勢10万余を率いて三輔に兵を進めた。

 この反乱軍を鎮圧するため朝廷は皇甫嵩を派遣するが戦果があがらず、やがて讒言にあって解任されてしまう。
 その後任となったのが張温と董卓である。

 張温は六個師団を率いて討伐に向かい反乱軍の勢いを削ぐことに成功する。
 さらに董卓はこの機を利用して辺章・韓遂の軍を撃破した。

 この勢いを借りて官軍は追撃するが、補給を絶たれるなどして大敗を喫し、無事に帰還できたのは、6個師団のうち 董卓の率いていた軍のみという有様だった。

 この後、反乱軍で内輪もめが起こり韓遂が辺章を殺害する事件が起こる。
 韓遂は馬騰と組んで三輔に侵攻したが、皇甫嵩によって討ち破られてしまう。
 しかし、抜本的な鎮圧にはいたらず、馬騰と韓遂は以後涼州で勢力を保つことになる。

戻る