荀
は重苦しい気持ちで寿春に留まっていた。
曹操に南征に同行するよう言われたものの、彼が自分を亡き者にしようとしていることを薄々感づき、病気と偽って出兵を拒んだためである。
曹操陣営一番の臣でありながらこのような事態に陥ったのには理由がある。
力を失った漢王朝に代わって曹操は軍を起こし治安を安定させた。日に日に朝廷内での権力は強まり、もはや漢の皇帝などなきに等しい。曹操は次第に傲慢になり、
ついには「魏公」へ登ることになる。これは、将来の禅譲、いや簒奪への一歩であることは、誰の目にも明らかであった。
この事件は、漢の臣を自認し、それ故に曹操を助けていた荀
と曹操を決定的に裂く原因になった。
荀
が曹操の魏公に登ることを反対したからだ。
曹操は自らのために荀
が二度と策をめぐらさないことを悟り、同時に恐怖した。もし
彼が自分を暗殺しようとしたら……。その智謀を誰よりも知っているだけに、曹操は荀
を
群雄割拠するどの軍閥よりも、真っ先に片付けなければならないと考えるようになっていた。
ある日、荀
の元へ曹操からの使者がやってきた。使者は蓋付きの器を荀
に差し出した。曹操直筆の封がしてある。
使者が言うには、これは病いを心配しての見舞いの品だという。
荀
は訝りながらもその蓋を開けて絶句した。中には何も入っていなかったのだ。
「これはつまり、私に死ねということか……」
曹操から頂き物を受けた場合、お礼の返事をしなければならないが、中に何も入っていないのではしようがない。もし、あてずっぽうで何々をありがとう
ございましたと返事をすれば、「何も入っていない(中身を入れ忘れた)というのに、何々が入っていただと! 主君を欺こうとするとは何事か!」と言われ
殺されるだろう。
では何も入っていなかったと素直に伝えればよいかというと、そうもいかない。もしそう返事を書いたならば、「私は何々を入れて間違いなく送ったというのに、
何も入っていないとは何事だ!」といわれ、やはり殺される。というわけだ。
荀
は、今更ながら曹操が本気で自分に殺意を抱いていることを悟った。彼は平然と蓋を閉じると、
使者に曹操の元へ帰るよう指示を出した。
驚いたのは使者のほうである。お礼の手紙なくして追い返されるとは、思ってもみないことだったからである。
荀
は部下の崔孟(架空の人物)に命じて曹操の使者を館から叩きだすと、崔孟に耳打ちをした。
まもなく、曹操の使者は町外れの川辺で、何者かによって身包みはがされ殺されているのが見つかった。
荀
は、早速曹操に手紙を書いた。
せっかく殿よりお見舞いの品をお送りいただきましたのに、途中、使者が賊に遭い所持品を全て奪われてしまいました。
既に何をお送りいただいたか知る由もありませんが、私は殿のお心遣いに痛く感動し、ここにお礼申し上げます。
傍にいた崔孟が言った。
「さすがは荀
様。これならば曹操殿も荀
様をお咎めすることはできますまい」
しかし、荀
は相変わらず浮かない顔をしていた。彼は、曹操という男の執念深さを知っていたからである。
一度は難を逃れたからといって、次はそうもいきまい。おそらく、多くの護衛を連れて、使者が再び訪れるに違いない。
荀
は再び崔孟に耳打ちした。彼は頷くと、その場を離れた。
まもなく、寿春では祭りの季節になる。荀
の読みどおり、使者は再び空の箱を持って彼の元を
訪れた。しかも今度は、屈強な兵士を数百人も連れてである。これでは並大抵のことでは殺すことなどできないし、そもそも彼らを襲う賊などいないであろう。
しかも、使者は曹操の血縁関係にある夏侯霊(架空の人物)である。迂闊に手を出してもし荀
の手の者
だと分かれば、それこそ三族皆殺しに遭うこと間違いない。
夏侯霊は箱を荀
に差し出すと、言った。
「先日は護衛もろくにつけず、曹操様からの大切な見舞い品を失ってしまいました。今度こそ、お持ちしました故、どうかお受けとりください」
あたりに緊張が走る。この箱を開けたら最後、荀
の死は決定的となる。
しかし、荀
は箱を前に考え込むばかりで、一向に蓋をあけようとしない。
痺れを切らした夏侯霊は荀
に言った。
「どうしたというのですか? 殿からの大切な見舞いの品です。中身を確認し、お礼の言葉を述べるのが筋でございましょう」
荀
は夏侯霊を見上げた。
「ところで夏侯霊殿は、寿春の都に入って何かお気づきにはなりませんでしたか?」
「むむ……そういえば、焼けただれた家が多くあったが、あれはいかなることか?」
「はい、近く祭りがあるのでその用意をしていましたところ、火の扱いを誤って大火事を起こしてしまったのです。すぐに火事は消し止めましたが、
その被害は甚大であります」
そういうと、荀
は蓋を開けずに箱を夏侯霊の前に突き返した。
「庶民の仕業とはいえ、それはここを任されている私の責任でもあります。このような不祥事を起こした時、たとえお見舞いの品と言えどもどうして
いただけましょうか?」
夏侯霊は絶句した。そう、荀
が崔孟に耳打ちして事前に火事を起こしていたのだ。
夏侯霊たちは渋々箱を受け取り、曹操の元へ帰っていった。
崔孟「さすがは荀
様。これで曹操殿も諦めるに違いありますまい」
しかし、荀
は首を横に振った。
「いや、このたびのことで、殿はますます私の智謀を警戒しただろう。必ず三度(みたび)使者をよこすに違いない」
荀
はすぐに筆を取り、曹操に宛てて手紙を書いた。それは体調が悪く、既に政務が取れないため
隠居するという内容であった。
崔孟は、荀
が筆を走らす姿を痛々しい気持ちで見つめていた。曹操のために働き、第一の功臣となった
にも関わらず、このような冷遇を受けるとは……。聞けば劉備は、世では無名の何の実績もない、しかも親子ほど年下の男にさえ、三度も足を運び頭を下げて教えを乞う
という。ああ……、荀
様は仕える相手を間違えたのか……。
三度目の使者はすぐに訪れた。曹操その人である。荀
と崔孟は驚いた。
曹操は荀
の病気を心配し、箱を取り出して目の前の荀
に
手渡した。これは今までとは違う。曹操が目の前にいるのだ、もし中に何も入っていないとしても、お咎めを受けることはない。
荀
は箱を開いた。すると中には薬が入っていた。病に効くという。曹操は今すぐ飲むよう
命令した。
これは毒である……。
荀
は改めて曹操の恐ろしさを感じていた。病気と称している以上、いつ死んでも不思議はない。
まして毒殺なら外傷は残らない。曹操第一の功臣と呼ばれた自分の葬儀は、内外に部下思いの主君を印象づけるため、必ず盛大に執り行われるはずだ。つまり、その遺体に
争った傷跡があってはならないのだ。毒殺は最も相応しい殺し方なのである。
崔孟は、憤りを感じていた。これまで曹操のために身を粉にして働いてきた男を、小ざかしい策略で殺そうとしていることに!
荀
は自分の命運が尽きたことを悟り、毒と知った上で薬を飲もうとしたが、ふと傍にいる崔孟が
目に入り、思いとどまった。この場、つまり毒殺の場にいては自分の死後、口封じのために殺されるに違いない。そう考えた荀
は言った。
「崔孟よ、この薬は粉でしかもとても苦いゆえ、水がないと飲めそうもない。すまぬが水を持ってきてはくれぬか?」
崔孟とは馬鹿ではない。荀
の意図を察し、彼の仁に心打たれた。
”荀
様は漢の功臣。どうして奸雄曹操ごときに、その命くれてやるものか!”
彼は荀
の命に応じる振りをして立ち上がると、突然曹操に襲い掛かろうとした。
しかしそこは連戦練磨の曹操である。ひらりと身をよじると崔孟の攻撃をかわし、一刀の下に彼を切り殺した。
「おお! なんということを……!」
荀
はこの時初めて狼狽した。しかし曹操の冷たい視線にすぐに我に返った。
「荀
よ、良薬は口に苦しという。御主のために特別に私が用意した薬だ。
どうしても自分で飲めぬというならば、私が飲ませてやらぬでもないが」
曹操の護衛が荀
の両腕・両足を掴んだ。
恐れおののく荀
の口に、曹操は薬を流し込んだ。
「そなたの諡は恵公でよいかな?」
それが、苦しみの中で、荀
が聞いた最後の言葉であった。