曹操伝 第十話:檄文
 呂伯奢を殺した翌朝、曹操が人里離れた野原で目を覚ますと、隣で寝ていたはずの陳宮の姿はなかった。彼は素早く起き上がり辺りを見回した。 もしや近くを流れている川へ喉を潤すために行っているのではとも思ったが、昨日、呂伯奢を殺したときの陳宮の悲壮な顔を思い出し、彼が戻らないことを 悟った。
 曹操は小川で顔を洗った。とそのとき、首の辺りがひりひりと痛むことに気が付いた。ばちゃばちゃと水を立てるのをやめ、澄んだ水面で喉元を確認すれば まだ新しい一筋の傷が見えた。
”……奴め、さては私を殺(や)り損ねたな……”
 曹操は顔でこそニヤリと笑みをこぼしたが、心の中は凍りついていた。賞金のついたこの首だ、こんなところでモタモタしていれば、そう遠くない未来、 私はきっと弱輩の手にかかり、さらし者になるだろう。疫病と飢餓で生きることもままならぬこの時代だ、陳宮のように欲のない人間は少ない。
 彼は一刻も早く、父の住む陳留まで辿り着かねばならなかった。そこで近くの馬屋で店主を殺し駿馬を奪うと、馬が膝を折るまで走らせた。

 途中、何度か怪しまれることはあったものの、洛陽から離れるに従って彼の顔を知る者は少なくなり、商人の振りもだいぶ板についてきた。
 そして、いよいよ陳留と目の鼻の先まで辿り着いたとき、曹操ははたと思った。
 ”ここまで来るのに随分と時間を費やしてしまった。今までは私の顔を知らない者ばかりだったので嘘をつくこともできたが、ここから先はそうはいかまい。
 故郷に一歩足を踏み入れれば私の顔を知らない者はなく、董卓より手配書が届いていればたちどころに捕まってしまうはずだ。親兄弟であっても殺し合う時代、 故郷の人手さえ、信用はできない。
 そこで、曹操は草葉の陰に隠れると、陳留の町に入るのを夜まで待つことにした。

 日が暮れてからようやく陳留の町に入った曹操は、父曹嵩の屋敷の門を叩いた。しばらくぶりの親子の対面。長い逃亡生活のため、彼の頬骨は 瘤のように脹らんで見えた。
  「孟徳よ…。さては仕損じたな」
 曹嵩はその姿を一目見て呟いた。曹操は頷き、董卓を討ちもらした一部始終を話して聞かせた。
「それで…今陳留に舞い戻ってきたのはいかなる理由か? お前のことだ、まさか計のひとつも持ち合わせていないわけではあるまい?
 陳留はお前と係わり合いが深い土地ゆえ、時期に董卓の手の者がきっとお前を探しに来るだろう」
 曹操は一杯の茶をぐいと呑み干すと、家僕に美酒と最上級の馬肉をもってくるよう命じた。家僕が買い出しに行かなければならないと告げると、 曹操は一喝し、すぐに買ってこいと命令した。曹嵩は曹操の気を察し、人払いをすると彼の言葉をじっと待った。
「私は此処で義兵を募りたいと思います」
「義兵を…。その目的は?」
「もちろん、漢王室に寄生する逆賊を誅殺するためです」
 曹嵩は、髭一本生えていない顎を指でもみながら、久しく考え込んだ。その間、曹操は父から目を逸らすことはなかった。
「…しかし今や董卓の権勢は天を覆うばかりではないか。義兵を募ったところでうまくいくものだろうか?」
「かつて秦が全国を支配しながらもろくも崩壊したのは、陳勝ら匹夫の反乱がきっかけでした。今、董卓は朝廷では確かに権力を握ってはいますが、全国の 治安を安定させるほどの力はなく、また暴虐無尽な奴の振る舞いに反感を抱いているものは内外におります。もし志ある者が董卓誅殺の檄文を作り、各地の 有力者に飛ばした上で挙兵したならば、外は忠義に厚い名士が、内は大臣高官がそれぞれ呼応し、必ず董卓を討ち取ることができましょう」
 曹嵩は言葉を聞き終わるやそのままの姿勢でしばらく考えこんだが、やがて手をポンと膝の上で打つと、曹操に言った。
「黄巾の乱は収束に向かったものの、民の生活は汲々とし、朝廷は乱れている。これを放置すればさらなる禍(か)が訪れるに違いない。しかし、計画を 成功させるには元手が必要だ。小さければ必ず失敗し、大きければ同志を得るだろう。もとより失敗すれば死は免れることがてきないのだから、ここはひとつ、 地元の大金持ちの衛公を訪ねるのがよかろう」

 曹操は父の忠告に従い、翌日、衛公の屋敷を訪ねた。敷地内には大きな倉が2つもあり、下人の数は多い上皆顔色がよく、よい身なりをしていたので、 曹操は内心喜んだ。早速衛公と目通りすると、曹操は単刀直入に話をした。
「今や漢の宗廟は逆賊の手にかかり危機に瀕しています。皇帝陛下の近くにいる者は皆高位高官を与えられていながら逆賊を誅殺しようとはせず、 ただその身を可愛がるばかり。董卓は呂布を得てさらに残虐さが増し、上は陛下を脅かし、下は民を虐殺する有様。私は卑賤の身ながら奴を討つべく計略を 用いましたが、非才であるために今一歩のところで及ばす、やむを得ず陳留まで逃げ延びてまいりました。
 しかし、大丈夫は難を以って吉とし、窮を以って天命を得ると申します。私は故郷で義兵を募り、逆賊を誅殺したい思いますが、もし貴方様に天下泰平を望む お心がおありなら、どうか私にご助力をお願いいたします」
「どれほどの援助が必要であろうか?」
 衛公が尋ねると、曹操は答えた。
「恐れながら、この屋敷には倉が二つございます。精鋭を養うには十分かと存します」
 すると、衛公は顔を真っ赤にして怒鳴りつけた。
「なんと図々しい小僧め! 初めて面会した者に対して、我が家の倉をそっくりよこせと申すか!」
 曹操はたじろうことなく、わざと大げさいに手を振り上げて驚いた振りをした。
「なんと…衛公殿は呂不韋の名をご存知ないか」
 衛公は直立したまま、曹操を見下ろした。曹操は話を続けた。
「昔より、田畑を経営し得る利益は資本の十倍、珍品を売買して得る利益は資本の百倍、国王の庇護者になって得る利益は際限がないと申します。 今、漢王室は存続の危機に瀕しているとはいえ、民の信望は厚く、忠義の臣も少なくありません。逆賊董卓を討ち滅ぼし天子を扶け、上下の関係をはっきり させたならば、東は山東の海鮮から西は隴西の珍品までたちどころに倉に埋め尽くすことができましょう! 米は倉にある間は米に過ぎず、その錠を開けて 初めて千金の値打ちがでるものです」
 曹操の弁舌に言葉を失った衛公は、彼を上賓の礼によってもてなすと、帰る歳倉の鍵を手渡した。
 曹操は早速、衛公の財力を背景に義兵を募る立て札を市中に建てると、偽りの詔を発して各地に使者を出した。すると、楽進、李典、夏候惇、夏候淵、曹仁、 曹洪らが義兵を率いてはせ参じた。
 そこで曹操は軍事訓練を施す一方、名士の一人として全国の諸郡に董卓誅滅の檄を飛ばした。
 この計画は見事にあたり、渤海から袁紹が、また各地から袁術、馬騰、孫堅、公孫ら多くの将が終結した。
 そこで一同に顔を合わせると、盟主として曹操が袁紹を推挙した。彼は名族の出であったため誰も異議を唱えるものはなく、連合軍は洛陽目指して攻め上った。

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