曹操伝 第九話:本性
 曹操と陳宮は追っ手の恐怖に背中を押されるように、ひたすら走り続けた。董卓は残虐非道な男だ。反逆を試みた者はたとえ誰であろうと 体を八つ裂きにして殺すことを楽しみとしている。もし仮に、追っ手に捕らえられたならば、たとえ曹操がどんなに武人として優れていたとしても、 悲鳴を上げずにいられぬほどの過酷で残虐で、人の道に反した刑が待っていることに疑いはなかった。

 しかしそうは言っても馬でもあるまいし、千里の荒野を休まず走り続けることなどできはしない。ちょうど成皐(せいこう)まで辿り付いた時、 曹操は歩調を緩めると息を荒げている陳宮に言った。
「今夜はこの近くの呂伯奢という男の家に泊まることにしよう・・・」
 しかし陳宮は浮かない顔だ。曹操は彼をからかうような、子供に知らない言葉を教えるような口調で言った。
「なに心配はいらない。父の友人だ。私達を董卓に売り飛ばしたりはしないだろうよ。信頼のおける人物だ」
 事実、家主の呂伯奢は天下の董卓に追われている身の曹操たちを快く迎え入れてくれた。初めから堂々としていた曹操の傍らで、 陳宮から安堵の笑みがこぼれた。と同時に、「名士」の人脈というものに強い衝撃を受けた。陳宮は県令をしてはいたが、決して 家柄はよくない。そのため、当時各地に割拠していた名士ネットワークに入ることができなかった。臆することなく呂伯奢と語る曹操の 姿を見て、陳宮は彼にただならぬ大きなものを感じていた。
「せっかく来客があったというのに我が家としたら酒のひとつもないとは恥ずかしい。ちょっとそこまで買いにいってくるので、奥でくつろいでくださいな」
「いやいや伯奢殿。こんな時代です、酒がなくとも不思議ではございません。あまりお気遣いなさらずに」
 そう答える陳宮の隣を通り過ぎ、曹操は奥間へと歩いていき、そしてどっかりと腰を椅子におろした。
「陳宮、お前も来い。せっかく伯奢のおやじが酒をご馳走してくれるというのだ、好意に預かろうではないか」
 陳宮はしぶしぶ了承し、曹操の隣に座った。
 伯奢は家の下僕に何か囁いてから家を出た。それを見て、陳宮がまた不安になってきた。
「曹操よ、さてはあの男、酒を買いにいくと言って出かけたはいいが、実は役人を連れてくるためではないだろうか?」
 神妙な表情を浮かべる陳宮を見て、曹操は椅子の肘掛に肘を立てると、その聡明そうな顔を掌の上に載せた。
「わたしとて何も見ていないわけではない。先ほどこの部屋へ来る途中に厨房の前を通り過ぎたが、並べてあったのは空の酒樽ばかりで本当に 酒はないようだったのだよ」
 陳宮はなおも心配であったが、曹操があまりに落ち着いていたので次第に彼の顎の筋肉は弛緩していった。陳宮はようやく曹操の隣に腰を降ろすと、 自分が今置かれている状況に心底心を振るわせた。乱世に生まれてしまった以上、志半ばでの死は運命として覚悟している。 しかし、暴虐無尽の董卓が今、自分達に与える刑罰についてその頭脳をフル回転させありとあらゆる残虐な方法を考えているかと思うと、 恐ろしくて仕方がなかった。董卓は暗殺者に対して容赦しなかったからである。もし万が一この逃走が失敗し、追っ手に捕らわれたときは、 自ら命を絶たねばならない・・・。そう覚悟した陳宮は懐に潜ませた短刀をぐっと握った。
「待て・・・陳宮・・・」
 不意に曹操の声が耳元で聞こえた。曹操は懐に入れた陳宮の手を抑え、小声で耳打ちした。
「もう少し様子を見ようではないか・・・」
 一瞬、状況を読み取れなかった陳宮であったが、聡明な彼はすぐに曹操の心中を察した。厨房からは下人たちの声が漏れていた。
「せっかくの獲物だ。足をしばって殺してしまおう」
「呂伯奢様の帰りを待たなくてよいかな」
「構わんだろう。折角の獲物だぞ。先に我らだけでさばいて何が問題ある? 酒は酒宴の時に間に合えばよいのだから」
 下人たちが包丁を研ぎながら交わしている言葉に、陳宮は色を失った。恐怖のあまり、体の震えが止まらない。それが握られた腕を伝って 曹操に気付かれることが恥ずかしくもあった。
「陳宮・・・この状況、やむを得んな・・・。俺の考えはお前と同じだ。殺られる前に殺る・・・。乱世を生き抜く上で、これは決して悪ではない」
 曹操は陳宮の腕を離した。そして物音を立てぬようにゆっくりと立ち上がった。陳宮も曹操に釣られ、ゆっくり立ち上がろうとしたが、膝が笑って しまったためあやうく体勢を崩しそうになった。彼は一度座っていた椅子に腰を落としてから、意を決してすくっと勢いよく立ち上がり、 棒のようにピンと張った言うことを聞かない足をほぐした。
 崇高な考えをもつ者が、下人に料理されるようなことがあっては天下万民にとっても不幸なことだ。陳宮は自分にそう何度も言い聞かせた。
 曹操の合図で、二人は厨房へ抜ける扉をあけると、一斉に彼らに飛び掛った。不意を疲れた下人たちは曹操達の敵ではなかった。あたり一面に流血が 飛び散ると、あたかもそこは戦場であったかのように地獄絵巻さながらの光景となった。
 しかし逃げ惑う術もなく殺された彼らの先にあったのは、縄で吊るされた大きな豚であった。曹操と陳宮は絶句した。
「まさか、先ほどの会話は・・・」
 陳宮はその場に膝を着いた。彼は自分の犯した罪を知り、自分が董卓と同じ狂気を理性の奥に隠し持っていることを 悟って絶望した。我らは呂伯奢の家族、下人を尽く無実の罪で殺してしまったのだ! 彼らが縛ろうとしていたのは自分達ではなく、 自分達をもてなそうと用意した豚であったのだ! その事実は無言で二人の前に鎮座していた。
 身の危険を冒してまで我らを受け入れてくれた呂伯奢になんと詫びればいいのだろうか。言い逃れはできない。こうなってしまっては、せめてもの 報いとして呂伯奢の手にかかり、彼に我らの首にかけられている報奨金を与えることしかできないように、陳宮には思えた。
 彼は曹操に同意を求めるべく、無言で彼を見上げた。しかし、そこには陳宮が想像していたものとは違う男の顔があった。普段と何も変わらない、 惨事が起こる前、椅子に腰掛けてくつろいでいた時と何も変わらない涼しげで落ち着いた曹操がいた。
「こうなってはしまっては仕方がない・・・」
 それに続いた曹操の言葉を陳宮は耳を疑って聞いた。
「呂伯奢のおやじが戻ってきたら、厨房へ入る前に奥の部屋へ誘い出せ・・・。私が背後から奴を斬る」
 息を呑んで言葉が出ない陳宮に、曹操は不気味にも笑みを称えて答えた。
「気に病むことはない。かつて、孔子の高弟、曹参(そうしん)でさえも母に疑われたのだ。私が奴ら下僕を疑っても不思議ではない。 そもそも、我らのような札付き物をかくまう以上、疑われるようなことをした奴らが悪いのだ。
 このまま逃げれば、戻ってきた呂伯奢によって我らは通報され、命がないであろう。もちろん、残っていても怒りに狂った呂伯奢によって命は ないであろう。陳宮よ、考えることはないではないか。我々にはひとつしか、選択肢はないのだ」
 陳宮は、穏やかな表情を浮かべる曹操に、とても冷ややかなものを感じた。それは漢王朝の再興、治安の安定を理想とし、自らを正義の士と 自認していた陳宮の心を少なからず傷つけた。ここで拒めば、次は私かもしれない・・・。死体を前にして、底知れぬ恐怖が彼を襲った。我もあのように 無様にこの男に斬り刻まれるのか・・・。
 陳宮は、世を正すために生き延びるのだ、と自分に言い聞かせ、首を縦に振った。そして、何も知らず家に戻ってきた呂伯奢を言われたとおり 奥の部屋に誘い込むと、彼を曹操と二人で殺した。
「私が人を欺くこととはあっても、人に欺かれることがあってはならない」
 呂伯奢の死体を見下ろして呟く曹操の隣で、壊れていく理想を陳宮は感じていた。

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