曹操伝 第八話:漢の役人、陳宮
 董卓暗殺に失敗した曹操は、もはやことが露見するのは時間の問題と考え、取るものも取らずに都を飛び出した。仮に董卓を騙せたとしても、 奴の傍らにいる謀士、李儒までは欺けないと悟っていたからだ。
 案の定、董卓が放った伝令は曹操を追い越し、中牟県の関所に先に到着していた。曹操の目にちょうど関所の一角が見えたところで、背後から早馬に乗った 伝令が彼の真横を通り過ぎたのである。曹操は慌てて角を曲がると、遠巻きに関所の様子を窺った。伝令は関所の下役人に人相書らしきものを手渡していた。 間違いない・・・。自分を捕縛するために董卓が放った者である。伝令も下役人も面識はなかったが、黄巾の乱で暴れまくった 自分である、どこで誰が見ていたとも限らない。曹操の首筋に粘り気のある汗がじわっとにじみ出た。

 まもなく、伝令は足早にその場を立ち去った。他の関所も封じるつもりなのだろう。相手は早馬である。とても今から他の関所を 目指したところで、追い抜けるものではない。
 曹操は冷静になるよう自分に言い聞かせ、そして決意した。商人の振りをしてうまくこの場をやり過ごすしかない・・・!
 彼は袖で額に吹き出ていた汗を拭いた。襟を広げ首筋の汗も乾かした。あまりに汗ばんでいると、逃亡者ではないかと怪しまれるためである。
 さらに念には念を押し、靴の中に布を挟んだ。これだけで背丈を数センチ誤魔化せる。さらに近くの民家から墨を盗み出すと口に放り込み喉を潰した。 これでしばらくは甲高い声は出ない。曹操は再度身なりをチェックした後、関所へと向かった。

「おい、そこの者。名を何と申す?」
 曹操は自分の境遇を思い知らされた。つい先ほど、董卓暗殺失敗をする前であったならば、どうして県の下役人にこんな言われ方をされたであろうか、と。 たちどころに斬り捨てていてもおかしくはなかった。しかし今や追われる身。生きるためには商人の分際に成り下がらねばならない。
「私は姓を皇甫という商人でございます」
 がらがら声で曹操は答えた。
 下役人は持っていた人相書と曹操の顔を何度も見比べた。曹操がその人相書を覗き込むと、自分によく似ている。ただし、幸運なことに曹操の特徴として 背丈が低いことと声が甲高いことが記されていた。
「商人か・・・まあいい。よし、通れ」
 しめた! 曹操は関所を通過しようとした。しかし、下役人とは別の声が彼を呼び止めた。
「待て、そこの者!」
 現れたのは、風采の上がらない、しかしどこか知的な匂いのする男だった。
「なぜ今、お前は早足になった!?」
 男の質問に曹操は思わず息を飲んだ。平常を装っていたものの、無意識のうちに小走りになっていたのかもしれない・・・。まさか俺が このような初歩的なミスをするとは・・・。
 顔面から色が消えたことに気が付いたのだろう。いよいよ男は曹操の前に踊り出て彼の顔をじっと見た。
「こやつ・・・曹操だな・・・?」
 疑問形の言葉とは裏腹に、彼には確信があったようだ。すぐに携帯していた剣を抜くと曹操の顎に剣先を突きつけた。
 曹操は彼の聡明な瞳を前に、言い逃れする気力を失った。
「陳宮様・・・しかしこやつ、曹操にしては背丈も小さく、声もがらがらです。なぜに曹操と・・・?」
 男の名は陳宮といった。曹操はその名前に聞き覚えがあった。家柄が全てであるこの時代、名士の出でもないのに県令に命じられた男がいると 話題になったことがあったのだ。そうか・・・この男が・・・。曹操は下唇を噛み締めた。なんたる不運。このような男の守る関所を選んでしまうとは・・・。 いや、それともこれこそが天が私に与えた贈り物か・・・!?
 欲望うずまく宮中で、暴虐の限りを尽くす宦官や外戚たちを見てきた曹操にとって、陳宮の瞳はあまりにも澄んでいた。
 しかし、曹操が思っていたよりもずっと陳宮は賢かった。取り入る隙もなく、彼は大声を上げた。
「ものども! こやつこそ逆賊曹操ぞ! 捕らえて手柄とせよ!」
 あっという間に警備の兵によって虜にされた曹操は、関所の牢獄へと放り込まれてしまった。しかし曹操とて黙ってはいない。 彼を捕まえて褒美がもらえると気分をよくしている獄吏に、すかさず声をかけた。
「お前のような小人がそうして浮かれているのも今のうちだぞ・・・。私がなぜ董卓から追われているかお前は知っているか?」
「そんなこと、俺の知ったことではない。ただお前は俺達にとって突然転がり込んできた黄金千斤のようなものだ」
 すると曹操は手を叩き、わざと大げさに笑った。
「だからお前らは小人だというのだ。董卓が俺の首に値千斤の懸賞をつけたのは、ひとえにそれだけ価値のある物を俺が盗んだからに 決まっているではないか。もしお前が陳宮殿へこのことを伝えに行かないのであれば、俺は董卓の兵がここにやってきたとき、その宝なら お前が飲み込んでしまったと奴らに訴えるぞ! そしたらどうなると思う? お前は褒美を与えられるどころか内臓まで細々に切り裂かれるだろう」
 この曹操の言葉に獄吏は驚いた。確かにそんなことを言われたら、一介の獄吏などあっという間に切り裂かれてしまうに違いない。彼は血相を変えて 曹操に膝まづいて許しを乞うた。
「今の話、陳宮様にも伝えるゆえ、もうしばらく待たれよ」
 彼は慌てて牢獄を後にした。よほど動揺したのだろう、階段から足を滑らせて転ぶ音が牢獄まで響き渡った。
 しばらくして、先ほどの獄吏を連れて陳宮が牢獄に入ってきた。隣で息を荒げている獄吏を見る限り、おそらく曹操の言葉はもう彼の耳に届いて いることであろう。しかし全く動じる気配はなかった。こやつ・・・やはり司馬遷の史記を読んでいたか・・・。陳宮の涼しげな顔に、曹操は悟った。
というのも、曹操が獄吏に語った言葉は、実は史記という書物にそのまま書かれている逸話であったからだ。
「貴様が董卓の宝などに興味がないことは分かっている。董卓の兵が来たとてそう伝えるまでのこと。貴様が宝を盗んだということが嘘ならば、 我らが腹を切り刻まれることもない。・・・しかし曹操よ、そのような嘘を言ってまで私との面会を望んだ以上、冥土の土産に何か面白い話を 聞かせてくれる気になったのだろう?」
 曹操は深く頷いた。
「さすがは陳宮殿。噂に違わぬ聡明ぶり。しかし聡明でありながらなぜ今逆賊の手先となり、県令というちっぽけな役職に納まっているのか?」
「逆賊!? 罪を犯した貴様に言われたくもない」
 そう言う陳宮は、曹操から目を逸らした。曹操はしめた、と思った。
「私はかつて、十常侍の叔父であっても夜間に剣を携帯して出歩いていた者を法に照らし合わせて鞭打ちの刑にしたことがある。そのために十常侍に はだいぶ目を付けられてしまったが、志ある者は誰も私の行動を非難しなかった。今はどうだ? 董卓は帝の首を据え代え、さらには帝に仲父(ちゅうほ) と呼ばせている。この罪を法に照らし合わせて処罰しようとした、ただそれだけのことよ・・・」
 曹操の言葉のあと、牢獄はしんと静まり返った。まるで海底深くへと沈む船のように。
「まさかお前・・・董卓を・・・!?」
「志ある者は死を恐れぬものだ。逆賊董卓は私を飼いならそうと州牧の官位を与えようとしたが私は受けなかった。逆賊から官職を受けることを 恥としたからだ。まして県令程度ではとても私は飼いならせない。欲しいのは奴の首なのだから」
「言ってくれる・・・」
 陳宮は苦笑いを浮かべた。
「今董卓は専横の限りを尽くしているが、いつまで持つだろうか? 有志は地方に散り力を蓄えている。やがて洛陽に攻め上ってくるぞ。そうなれば、 県令に収まっている貴様とて命はないであろう。逆賊の命により董卓誅殺を試みた忠臣をみすみす殺した張本人として、獄吏の手にかかるは必定!」
「いや、それはない・・・私とて漢の忠臣。どうして逆賊討伐を志す官軍によって我が身が害されるだろうか・・・」
 そう言うと、陳宮は帯刀していた剣を抜くと振り上げた。
「ぐわっ! なにを!?」
 次の瞬間、男の叫び声が木霊した。斬られたのは先ほどの獄吏であった。
燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや。(*)小人には分からぬ話だ」
 陳宮はそう言うと、牢獄から曹操を解放した。
「こうなってしまった以上、私もここには留まれん。逆賊の手先となって県令ごときに納まるぐらいなら、君と共に逃げようではないか」
 こうして曹操と陳宮は、中牟県の関所を突破した。

(*)燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや、とは始皇帝死後の反乱のきっかけを作った陳勝の言葉。燕や雀のような小さな鳥が、遠方にまで飛ぼうとする 鳥の気持ちなど分かるはずがない、という意味。原典は荘子の逍遥遊篇(しょうようゆうへん)に逸話が記載されている。

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