曹操伝 第七話:董卓暗殺計画後編〜思慮
 王允から宝刀を賜ったのは、あの夜から3日後のことだった。曹操はその美しい刃の流れと、その美しさからは 想像もできないほど鋭い切れ味に、思わず眉をひそめた。これならば、間違いなく董卓の心臓を一刺しできる。後は手はずどおり知恵袋の李儒を捕らえ、 呂布の館を取り囲んで火を放てはよい。化け物とはいえ所詮人間、炎で焼けないものではないのだ。

 曹操は吉日を選び宮殿を訪ねた。元々董卓よりその才能に目をかけられていたため、ご機嫌を伺いに来たと言えば、簡単に面会は許されるのだ。 勿論、呂布には珍しい酒が手に入ったと言って家人に贈らせ、足止めさせている。全ては計画どおりに進んでいるように思えた。

「貴公から訪ねてくるとは珍しい」
 董卓は品定めでもするかのようなギョロリとした目で曹操を見たが、しかし口元は嬉しそうに笑っていた。冗談が似合わぬ顔と言うのは損なものである。 董卓は、ついに曹操が自分の力を認め、服従の印として訪ねてきたと思ったのだ。

 彼は曹操を宮殿の奥へと案内した。そこは玉座の間であり、漢の皇帝やその傍仕え以外、基本的に立ち入りの許されない区域である。 にも関わらず、董卓は馬屋でも荒らすかのように床に散りばめられた珍品を踏みつけて歩いた。
 曹操は女物の絹を何度かまたいだ。神聖な場所で好色を貪る董卓の姿が思い浮かんだ。しかし・・・。漢王室がもはや凋落の一途を辿ってしまったせいだろうか?  曹操はそれに嫌悪感を抱かなかった。むしろ、董卓と同じかそれ以上のどす黒い煙が、はらわたからこみ上げてくるような感覚をおぼえた。 宦官を殺して一度は手に入れかけた権力。今、自分からそれを奪った張本人が目の前にいる。そして、懐には何でも突き通すような鋭利な宝刀がある。

 曹操は体の心から伝え来る武者震いを必死に抑えた。一見豪快だけの男に見えて、意外と董卓は臆病であり、気の細かいところがあると知っていたからだ。 疑われては、何かと厄介なことになる・・・。

 董卓は背中を曹操に向けて歩きながら尋ねた。
「ところで曹操。袁家のドラ息子は元気か?」
 曹操は一瞬、呼吸を止めたが、咄嗟にくしゃみをして誤魔化した。
「あの男とは会っておりません。四代に渡って三公を輩出した家柄でありながら、帝の相父に逆らい宮廷を追われるなど、全く以って愚かです。 名門も奴の代で終わりましょう」
「随分と冷たいのだな、曹操・・・」
「人は流れに乗ればいい・・・。それが私の持論です。そして流れに乗れなかったものは、この時代、生き残る事はできますまい」
 曹操はさりげなく董卓の虚栄心を擽った。董卓こそ、流れに乗って相父にまで上り詰めた張本人だからだ。
「流れに乗ればいい・・・か。いい言葉だ」

 二人はやがて中庭に辿り着いた。中央には美しい噴水があり、その回りを見たこともないような色鮮やかな花々が咲き乱れている。 中庭に面した部屋には大きな鏡があることからして、ここは皇女の間であろう。董卓が昼となく夜となく、宴を催す場所でもある。
 董卓は庭に面して立ち、曹操はその斜め後ろに立った。その間数尺。まだ、宝刀が届く距離ではない。もう少し間合いを詰めなければ・・・。
 しかし、曹操が一歩踏み出す前に董卓が口を開いた。

「ところで曹操よ。朝廷内にはまだわしに心から従わぬ者がいると聞くが、それは誠か?」

 董卓が頭が切れるとは思えない。とするとこれは李儒の入り知恵か? 曹操は思った。
 はい、と答えれば、なぜいると知っていながら今まで黙っていたと責められ、反逆の罪で一族郎党皆殺しにあうであろう。
 しかし、いないと言えば、見え見えの嘘になる。誰かをかばっているのではないかと嫌疑をかけられ、やはり命がないであろう。
 さて、どうしたものか・・・。

 言葉に詰まる曹操を、董卓は振り返った。その表情からして、そう長くは待ってくれそうにない。
 しかし曹操という男、追い込まれてからが強い。彼は幼い頃より咄嗟の嘘をついては周りの大人たちを欺いてきた。叔父をはめた時もそうだ。 窮地に立ってこそ、彼は天才なのだ。
「相父様にたてつく事ができるものなどこの地上におりましょうか? もしいるとすれば、それは足元に這えづくばるカマキリぐらいでございましょう。
 なにぶん、奴らは知恵も力もないくせに、誰にでも戦いを挑みまする」

 曹操の返答に、董卓は満足げに笑った。安心したのだろうか、先ほどまでとは幾分悠長に体を動かし、曹操の横を通り抜けて部屋の中へと歩き出した。

”今しかない!”

 曹操は懐から、宝刀を取り出した。そして背を向ける董卓に斬りかかろうとした。自分の目から口から、耳に至るまでどす黒い野望がもくもくと 吐き出しているのを感じていた。全ての準備は整っている。天下の悪臣董卓を討ち取った暁には、もはや私を宦官の子とは誰にも呼ばせぬ・・・・・・!!

 しかし次の瞬間、曹操は絶句した。部屋の中央に置かれた巨大な鏡を通して、今まさに懐から剣を抜かんとする自分と目が合ってしまったからだ。

「むむ・・・! 何をする気じゃ、曹操!!」
 董卓は素早く身をよじった。曹操は慌てて董卓の前で片膝をついた。
「実は私、以前より相父様とお近づきになりたいと考えておりました。この度、たまたま宝刀が手に入りましたため、本日は献上するために吉日を選び、 こうして参ったわけでございます」
 董卓は初め曹操を凝視したが、彼の手元にあるのが伝国の宝刀である事に気が付くと、とりあえずこの場は曹操に礼を言ってそれを受け取った。

 曹操は滲み寄る死の恐怖と戦いながら、あくまで平静を装って董卓に言った。
「先ほどの相父様の話、痛く身に染みまする。もしカマキリの夢にうなされる事がありましたら、是非とも私を都尉に任命くださいませ。必ずや不届きな カマキリを見つけ出し、退治してご覧に入れます」
 実はその昔、曹操がまだ二十歳の頃、洛陽の北都尉に任命された事があった。その際、たとえ高官であっても罪を犯した者には容赦なく棒で叩いて罰したため、 威名をとどろかせたことがある。董卓とてそれを知らないはずはない。この急場をしのぐために咄嗟に一計を案じ、 反乱分子を一掃するにはもってこいの人物であると自分を売り込んで見せたのだ。

「うむ・・・それは妙案かもしれんな・・・」
 唸る董卓に、曹操は続けた。
「てあれば、私は早々においとましたいと存じます。相父様と親しくさせていただいていると世に知れ渡れば、カマキリ共が隠れてしまいますから」
 曹操の言葉は尤もなので、腑に落ちないながらも董卓は彼を帰した。
 曹操は自邸に辿り着くと、取るものも取らず、ただ着物だけを着替えて飛び出した。人の疑念は時間が経てば経つほど大きくなるものである。 もはや追っ手が差し向けられるのは時間の問題であると曹操は知っていたのだ。
 それはまもなく現実となった。李儒と呂布が董卓より事の顛末を聞いて、自分の謀反に感づいたのだ。
 逃亡は困難を極めた。しかしながら、曹操は自分の知略に自信を持ち始めていた。確かに今回の計画は失敗した。しかしそれは運が味方しなかっただけであり、 計画そのものが悪かったわけではない。まして万一に備えて宝刀を懐に隠していたこともその場を切り抜けるには有効であった。
 もし王允や夏侯淳ならば、今ごろ八つ裂きにされていたことだろう。しかし俺は生きている・・・!
 曹操は草葉の陰で追っ手が過ぎ去るのを待ちながら、不敵な笑みを浮かべた。
”俺は誰を欺いてでも生き残ってみせる・・・! 我、乱世の姦雄ぞ・・・・・!”

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