曹操伝 第六話:董卓暗殺計画前編〜主役の登場
 何進はこの世を去った。しかし彼が残した負の遺産はあまりにも大きかった。黄巾の乱平定のため涼州に向かっていた董卓が、 大将軍何進が討たれたと聞いて、大軍を率いて都に引き返してきたのだ。しかも不運な事に、何進が宦官に殺害されその宦官も袁紹らに討たれるという混乱を逃れるため 宮中から脱出した小帝と陳留王(後の献帝)と遭遇してしまった。
 袁紹も曹操もまだ若かったのだ。董卓の野心に気が付いたときには、「皇帝を保護した」という大義名分を以って入城する董卓を阻む事はできなかった。

 当初、董卓の暴虐に荊州刺史の丁原が反抗し見事緒戦で勝利するが、その養子で猛将の呂布が董卓に寝返ると一転、丁原は暗殺され武力で対抗できる 者がいなくなってしまった。袁紹ら旧臣が反対するも受け入れられず、董卓は少帝を廃し陳留王を帝位につかせ、自らは相国となって全権を掌握することに成功した。
 すると董卓はさらに凶暴さを増し、略奪をしては女と金品を奪い、賊を倒した戦利品として言いふらすまでになった。

 ことここに至り、司徒王允が動いた。過去に後軍校尉鮑信が董卓誅殺を持ちかけた際は時期尚早と断ったが、冀州に逃れていた袁紹から董卓誅滅の密書を受け取ると、 密かに旧臣を集めた。その中には曹操もいた。

「もはや何も言う事はあるまい・・・。丁原殿が亡くなられてからと言うもの、外に出れば罪なき者を殺し、宮に入れば唐氏様(少帝の妃)、何太后様を死に追いやった・・・。
 さらに帝の位さえあってないようなもの。帝に相父と呼ばせるなど、もはや無礼極まりない・・・。
 にも関わらず、諌める術さえもたぬ自分に、怒りさえ覚えている・・・」

 涙ながらに王允は訴えた。

「それは我らとて同じこと・・・。どうして董卓ごとき田舎侍にして暴虐者に心から従おうか・・・」
「されど、董卓には呂布と言う最強の男がついている・・・。奴がいる限り、うかつに近づく事もできぬ・・・」
「左様・・・。越騎校尉伍孚の死に方を見たであろう・・・。董卓に剣を向けたばかりに五体ばらばらに切り裂かれた姿を・・・。 一族郎党にまで、あのような死に方だけはさせたくないものよ・・・」

 一同は口々に言った。しかし一人として王允を見上げる者はいなかった。誰もが董卓の凶暴さを恐れるあまり、顔を上げてその名を 呼ぶ事さえはばかっていた。

 曹操は末席にてその一部始終を眺めていた。これが董卓誅滅のために集まった、漢王室に最も忠誠心厚い者たちの姿なのか・・・。 彼らが所詮その程度の考えしかないのならば、その下々の忠誠心などたかが知れている。帝のために命を賭して戦う勇気も、 己のために功を狙う事もない。であれば・・・。もはや漢王朝の行く末は定まった、と曹操は感じた。

 王允の皺くちゃな喉から、しゃがれた声が這い出た。
「されど董卓をこのまま生かしておけば、いずれ帝位すら望むようになるであろう・・・。そのとき、我ら漢の臣は如何すべきか・・・。 皆の意見が聞きたい」

”身を滅ぼしてでも、帝をお守りする”

という言葉は、どこからも聞こえてこなかった。ただただ静寂に怯える群臣が、カタツムリのように背中を丸め、息を潜めるばかり。 この場にいることさえ恐ろしく感じているようで、落ち着きなく足をガタガタ震わせて顔を両手で覆う者さえいた。
 突然、曹操が甲高い笑い声をあげた。それまでがあまりに静寂であったため、王允以下、皆が一斉に彼に振り向いた。

「漢の臣は如何すべきか・・・とは聡明な王允殿らしくないお言葉。命を賭してここに集まっている有志を前に、いささか控えめな問いかけではないだろうか?」

 曹操の声は部屋の隅々にまで行き渡った。彼の言葉から逃れる事のできる者は誰一人としていなかった。
 集まった群臣たちは皆、間違っても誰かと目が合わないように、自分の足元へ視線を移した。そこはまるで視界の安全地帯のようである。 ただ一人曹操と目を合わせる王允だけが、眉間に皺を寄せ険しい表情をしていた。

「控えめとは・・・? 曹操殿は身の振り方をもうお決めかな?」

 王允は目を輝かせ、しかしとても落ち着いた口取りで言った。そんな彼の言葉を予測していたのか、曹操は自信に満ちた笑みを浮かべた。 まるで、主役俳優が万全の体制で出番を待ち、そして舞台に上がる瞬間のような顔だ。見せ場を知っている者は、決して機会を損じない。
 曹操は王允の視線に促されるがまま、大きな通りのいい声で叫んだ。

「董卓を殺すなどたやすい事。たとえ地上の全ての権力を手に入れても、所詮人は天の法力を超えることはできない。兵に訴えて勝てない相手ならば、 個人の武をもっと攻めればいい」

「しかし、董卓には呂布と言うボディガードがいるではないか・・・。そう迂闊には・・・」
 群臣の中から、どこからともなく声が聞こえた。曹操は見回したが誰とも目が合わない。彼は豪快に声をあげて笑った。
「どうやら、この中には心配性の方がいるようだ。たとえ呂布が董卓の義理の息子と言えども、何も寝所まで共にはしていまい」
 曹操は急に真面目な面持ちで、王允を見た。
「もし私が宝刀を賜ったならば、必ず董卓の息の根を止めて見せるものを・・・」
 しかし、その申し出に王允は渋い顔をした。
「肉を切るならば宝刀でなくともよかろう。なぜ宝刀にこだわる?」
「董卓の寝所で奴を刺し殺すには短刀を懐に忍ばせる必要がございますが、その辺りの刀では、奴の鎧を突き抜けることなどできますまい。
 奴は何度かの暗殺事件以来、とても用心深くなっております。
 董卓が丁原を討つために赤兎馬を呂布に与えたように、どうか私めに宝刀をお与えください」
 それで漢王朝が救われるなら・・・。凡庸な王允には、曹操が暗殺の褒美として宝刀を欲しがっているとしか思っていなかった。
 彼は後日、曹操の館に伝国の宝刀を授けると約束し、その場はお開きになった。

 自邸に戻った曹操は、たまたま立ち寄っていた夏侯淳に一部始終を話して聞かせた。夏侯淳も王允と同じ質問をしたので、 曹操は夜中であるにもかかわらず、思わずカラカラと笑ってしまった。
「大事を為す者は、何事においても思慮深くなくてはならない」
 曹操はただそれだけを夏侯淳に呟いた。誰もこのとき、曹操の言葉の意味を知る者はいなかった。曹操自身その意味を知られずに済むことを 望んでいたが、現実はそれほど甘くなかった。

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