曹操伝 第五話:宦官誅滅
 何進が何皇后に召されて長楽宮へ支度をしていると、曹操と袁紹が息を荒立てて入ってきた。その後を近衛の兵が続く。
 あまりの慌しい足音を不快に感じた何進は、眉間に皺を寄せて二人をにらんだ。
「お前たち、門番には誰も中に入れぬよう言い伝えておいたはずだが・・・」
 赤と黄色の派手なローブを身にまとった何進の姿は、さながら田舎者が精一杯おしゃれをした姿に似ていた。
「なりませぬ!」
 袁紹は何進の足元に膝を突くと、馬子にも衣装と言うべき分不相応な大将軍を見上げた。
「ならぬ・・・だと? ふん。貴様に指図を受ける筋合いはない!」
 何進の鼻息が、袁紹の頭を掠めて曹操の耳元に届いた。曹操は危うく溜め息を漏らすところであった。
「何進様。これは間違いなく宦官たちの謀略でございます! 行けば必ず身に不幸が降りかかりますぞ!」
 目を血走らせて訴える袁紹の顔を見る事もなく、何進は従者から金のちりばめられた冠を受け取った。
「貴様、正気か!? わしは確かに一度、宦官を殺そうとしたことがある。しかし、その計画は中止にしたのだ。なぜ今更宦官がわしの 命を狙う必要がある?」
 袁紹の顎にぐっと力が入った。握り締めた拳もまた震えている。袁紹は「ぐわっ!」と口を開いた。しかしその直後声を出したのは袁紹の数歩後ろから二人を見ていた曹操であった。
「それではせめて、我々をお供にお加えください」

 何進が数人の従者と共に長楽宮へ向かう列の最後尾に、曹操と袁紹の姿があった。
 袁紹はこの期に及んでまだ何進を止めようと機会を窺っていたが、曹操は違かった。とても平静としている。
 袁紹の焦燥はそのままそんな曹操への怒りへと変わった。
「貴様、なぜ先ほど私の言葉を遮った・・・。おかげて何進将軍は長楽宮へ向かう事になったではないか・・・。宦官たちがてぐすねひいて待ち構えているのは間違いないのだぞ。
 そもそもその情報をよこしたのは、お前の手のものではないか。それなのになぜみすみす・・・」
 曹操はわざと歩調を落とした。釣られた袁紹の歩く速度が落ちる。
 曹操は静かに呟いた。
「私は貴方を救いたかったのです。もしあそこで食い下がっていたならば、将軍の腰にかけられた刀によって、今、貴方の首は宮殿の庭に落ちていたに違いないですから」
「馬鹿な・・・。仮にそうであったとしても、家臣と言うものは主君のために命を懸けてお守りするもの。それもできずにおめおめと生き長らえてなんぞのものか」
「袁紹殿・・・。もはや何進将軍の命運は尽きました。その将軍のために死んでどうされます?」
 袁紹は刀に手をかけた。
”なんと不忠の臣! この場で・・・”
 しかし曹操が返してきた澱みのない顔に、思わず鞘を下ろしてしまった。
「時代は乱世へと向かっております。黄巾の乱は単なる前兆に過ぎません。もし乱世を望まれないのであれば、今日はまたとないチャンスですぞ」
 曹操は笑った。それはとても爽やかな笑みだった。誰も、周りにいる誰も、まさか彼が今、主君何進の死を口にしているとは想像もつかないであろうほど。
 袁紹は言葉を失った。曹操が何を考えているのか、すべて悟ったのだ。

 やがて一向は長楽宮へたどり着いた。何進は袁紹、曹操にも従者と共に中に入るよう命じたが、「卑賤の身の我々には恐れ多いこと」と袁紹が辞退した。
 袁紹が曹操の謀略に荷担した瞬間だった。
 二人は言葉を交わさずとも、次にどのような事が起こり、そして何をすべきか分かっていた。
 何進を止めた後宦官を皆殺しにするために前もって潜めていた兵士が、近くの茂みに数百人身を隠している。おそらく深呼吸をあと数度する頃には 彼らに号令をかけることになるだろう。
「宦官誅滅!」と。

 そして時は満ちた。何進の首が外へ投げ出されたのだ! それはまるで味方からの合図のようであった。
 あるいは、天からの授かりものに曹操には思えたかもしれない。
「宦官誅滅!」
 曹操は叫んだ!
「宦官誅滅!」
 袁紹も叫んだ!

 二人と、二人に従う数百の兵士達は、一斉に長楽宮の中へとなだれ込んだ。中には敵しかいない。ひ弱な宦官たちはたちまち亡者と化した。 突然の襲来に逃げまとうことすら満足にできず、皆曹操、袁紹の手にかかっていく。
 曹操は宦官の重鎮、趙忠、程コウ、郭勝達を見つけ出すと、鬼神のような激しい表情を浮かべて斬りかかった。
 一瞬にして当たり一面が真っ赤に染まる。
 息も絶え絶えの趙忠達を頭上から見下ろすと、曹操は残忍な笑みを浮かべた。
「貴様らのような虫けらの体には、虫と同じ緑の血が流れていると思っていたが・・・。いやはや、赤い血であったか。
 世の中には、まだまだワシの知らない不思議な事があるものよ・・・!」
 曹操は太刀を振り上げた。その次の瞬間、三人の体は三つの骸となった。

「ここに趙忠を討ち取ったりー!」

 甲高い声が宮内に響き渡った。
 この時になって初めて、袁紹は我に返り、そして自分のしでかした事の大きさに膝を振るわせた。

”宦官誅滅の名のもとに・・・。
世を乱す大将軍を汚名をきることなく討ち取ったり・・・・・・。”

 そして今、何進という外戚、趙忠という宦官を葬った事で、彼らを討ち取った自分達に権力が転がり込んでくる音を仲間の兵士の歓声の中で聞いていた。
 もはや後戻りはできない。王朝は常に支配階層を求めている。そしてその一番近いところにいるのが、他ならぬ自分達であると実感していた。
 董卓・・・その名前を聞くまでは・・・・・・。

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