やがて黄巾の乱が全国各地で起こると、曹操は張宝・張梁らを大いに打ち破り、その功によって済南の相に任ぜられた。
その一方で、漢王室内部では外戚と宦官との間で熾烈な権力抗争が続けられていた。
曹操はこれらの抗争とも関係を持つことになる。
ちょうど、袁紹・曹操と酒を酌み交わしているところだった。
深夜、司馬の潘隠が大将軍何進の屋敷を密かに訪れた。
下僕が潘隠のことを伝えると、彼はあからさまに機嫌を損ねた。
「潘隠が来ただと? 何時だと思っておるのだ。無礼な奴め。追い返してしまえ!」
下僕は恐れをなしてスゴスゴと立ち去ろうとしたが、曹操がそれを止めた。
「お待ちくだされ、何進殿。潘隠といえば礼節の士。その士があえてこのような深夜にご訪問なさったのです。
しかも、従者すら引き連れず。恐らくは危急の用件でしょう。
ここはひとまず潘隠殿と会われるのがよろしいかと。その上で詰まらぬ用件とあらば、この曹操が責任を持って叩き出して
ご覧に入れます」
何進は袁紹に無言で判断を仰いだ。
袁紹がこくりと頷いたので、彼はひとまず怒りを抑えると、潘隠をこの部屋に通すよう下僕に命じた。
潘隠は曹操たちの姿を見ると、一瞬眉間に皺を寄せた。
何進はそれを見逃さず彼にこう言った。
「袁紹と曹操だ。この者たちがいなければ、とうにワシはお前を追い返していただろう。感謝せよ」
潘隠は怪訝そうに軽くお辞儀をして部屋の中に入った。
「実はどうしても将軍にお伝えしたいことがありまして……」
「うむ……。この者たちはワシの両腕だ。気にせずここで話すがよい」
何進は背もたれに深々と凭れ掛かると、杯に手を伸ばした。
潘隠は頭を低くし床にひれ伏すと、静かに語り始めた。
「帝が我々の前から姿をお隠しになって久しくまりますが、宦官たちが勅命を勝手に発し天下を乱すこと甚だしく、
漢王朝の徳は薄れ黄巾のような逆賊を蔓延させました。
にもかかわらず、奴らは反省するどころかさらに貪欲になり、天下の富を残らず食いつぶす勢い。
天が奴らを裁く前に我らが裁かねば、必ず災いが降りかかりましょう」
「前振りはよい」
袁紹が言った。酒の席でくつろいでいた所を邪魔されたのだ。何進が穏やかな外見に反して怒って
いることを感じたのである。
潘隠は顔を上げぬまま、話を続けた。
「もはや天下を正し奴らを誅殺できるお方は大将軍何進様しかおらぬこと、名のない子供にすら明らかでございます。
即ち奴らとて十分承知しておること。それ故に、大将軍に危機が迫っておるのでございます」
何進の持っていた杯が静寂の中に一滴の雫をこぼした。彼は自分の名が挙がったことに驚き、思わず杯を床に落とし
てしまったのだ。
その音は波を打つように曹操たちの耳に響き渡った。
「実は本日、私の所に趙忠たち宦官がある計画を持ちかけてまいりました。宦官の世を永遠にするための秘策でございます」
「大将軍、暗殺……!」
潘隠が告げる前に曹操が呟いた。
何進はハッとして曹操を睨んだ。
「曹操殿の察する通りでございます」
俄かに何進の目が厳しくなっていった。
「おのれ宦官たちめ! 皆殺しにしてくれるわ!」
何進は慟哭した。その場で立ち上がり剣を抜くと、今にも宮中に乗り込みそうな形相である。
慌てて袁紹が何進を止めた。
「何進将軍! ご乱心めさるな!」
その脇で曹操はあくまでも冷静に答えた。
「宦官を全て殺すなど不可能。奴らは無能ではありますが権力を一手に握っております。また既得権益を握っている階層からの
支持は厚い。大義なく、綿密な計画もなく動けば、必ず清流派の二の舞になりましょう」
「黙れ曹操! 大将軍暗殺を企てた者を殺すことが大義ではないと申すのか!」
曹操は何も言い返さなかった。天下という巨大な器でものを謀る自分の大きさと、個人の保身で謀る何進の小ささを
あからさまに比較しようものなら、たちどころに命を失うことを知っているのだ。
潘隠は曹操と向き合うと、こう答えた。
「大義ならばございます。すでに帝が亡くなっているにもかかわらずその死を隠し、帝の名前を使って勅命を発している宦官を
誅殺することは忠義! これを黙認するは、臣下として不忠極まりないことではありませんか!」
「何!? 帝はすでに亡くなられているのか!?」
曹操は眉を僅かに振るわせた。
「はい……。私も今日はじめてこの事実を知りました。奴らは自分達しか帝と会えないのをいいことに、帝になりすまして
勅命を発していたのであります!」
「何ということだ! そこまで腐りきっていたとは……!」
袁紹は天を仰いだ。
曹操はしばらく顎に手を当て黙り込んでいたが、やがて意を決したように何進に進言した。
「もはや宦官を許す術も法もありますまい。かくなる上は、何進将軍の言うとおり、皆殺しにでもしなければ漢王室にとっても
我々にとっても災禍となりましょう……。
しかし今動くのはどうかお控えください」
「なぜだ!? これほどの罪を黙認せよというのか!?」
袁紹が怒鳴りつけた。さらに何進も曹操を罵倒した。
「腑抜けたか、曹操!!」
曹操の目に、一瞬光が差した。彼は諭すようなゆっくりとして口調で話し始めた。
「宦官たちは取るに足らない者たちですが、未だ皇帝の印綬も、もちろん兵権も向こうにあります。我々が慌てて兵を集めたと
ころで、奴らにたどり着く前に殺されるのが落ちでしょう」
「しかし帝はすでに崩御なさっているのだぞ!」
袁紹が口を挟んだ。
「それを知っているのは宦官とここにい合わせた我らだけ。今、皇帝の名の下に兵を動かされては、我らは何の抵抗もできず
万民の笑い者になるです。いやそれだけではない。宦官たちに反感を抱いている者たちへの見せしめとして利用される
屈辱を受けることになる」
「ではどうすればよいのだ!?」
「皇帝が崩御されたにもかかわらずそれを誰も知らないからこそ、奴らは皇帝の印綬を自由に使うことができるのです。
ならばまずは皇帝を正すのが先決。宦官誅殺はそれからです」
「しかし、皇帝が亡くなったことを奴らが明らかにする保証はないぞ」
袁紹が言った。
曹操は杯に残っていた酒を口に含み音を立ててゴクリと飲み込んだ。そしてゆっくり息を吐いてから答えた。
「崩御されたことなど隠しつづけられるものではない。事の重大さに恐れをなし、間もなく奴らの方から次の皇帝の名前が挙
がるでしょう」
「自ら皇帝を名乗ることはないか……?」
不安そうに何進が尋ねた。
「宦官とは所詮、国あっての身分……」
曹操は自分が宦官の孫にあたることを思い出していた。しかし、途中で言い止めることはできなかった。
「自らのっとろうなどとは考えないでしょう。第一、奴らは王になっても継がせるべき子を持たない。国という器の中でしか
権力を行使できないのです」
「うむ……確かにそうかもしれん……。帝が亡くなったとなれば次の皇帝は我が妹と帝の間に生まれた弁(後の少帝)こそ
相応しい。その時こそ、奴らを皆殺しにしてくれる!」
曹操の予言どおり、間もなく宦官たちは帝が崩御されたことを公表した。
そして何進は太子弁を皇帝の座につけることに成功する。
こうして宦官誅殺の条件は整うが……。
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