曹操伝

第二話:予告された登場、乱世の奸雄−曹操


 叔父を陥れてからと言うもの、曹操の放蕩ぶりはさらにエスカレートし
ていった.
 しかし、その滲み出る器の大きさと見識の広さ、そして実行力は、数多
くの名士達から高い評価を受けていた。広東の名士、橋玄は「乱世が近い。
これを治める賢者は曹操殿かも知れぬ」と言い、南陽の名士、何ギョウな
どは、「漢王朝の滅亡は近い。その後の天下を安定させるのは、この人し
かいない」とまで言っている。
 そんな時、汝南に優れた人物評をすると評判の許劭(きょしょう)がいる
と聞き、曹操は早速出掛けることにした。

「何も許劭などと会うために、汝南まで出向く必要などないのでは」
 汝南との国境近くで馬を休めていた時、供として連れてきた狩りの仲間
の一人、卓駿(たくしゅん:架空の人物)が曹操に尋ねた。
 すると、彼は自慢の甲高い声でカラカラ笑いこう答えた。
「私の名は祖国ではたいそう有名になったが、天下ではまだ無名だ。郡一
つを治めるならばそれで足りるが、天下を望むならば、私の名声はまだま
だ足りない」
「曹操殿は天下を目指すおつもりで?」
 曹操は再びカラカラと笑った。これが彼のトレードマークなのだ。
「たった一人の兵も持たぬ今の私には、天下を語る資格はない。・・・だ
が、万民がこの乱れた世を治めてくれる英雄を求めていることは確かだ」
「我らは曹操殿の兵ではないのですか?」
「お前たちは同志だ」

 後漢王朝は、第十二代皇帝の頃になると、すでに地方を治める力は衰弱
していた。中央で州牧に任命されても、地方豪族の抵抗に遭い、任地に行
けないという事態さえ頻繁に起こるようになっていたのだ。
  さらに、全国的な疫病の蔓延により深刻な食糧難が発生し、特に地方で
は治安が著しく悪化していた。

  やがて、一行は汝南に入った。町はすっかり荒廃しており、立ち並ぶ家
々にも賊の爪痕が色濃く残されていた。曹操は一番大きな、それでいて賊
に襲われた形跡のない馬宿に馬をとめると、そこで一泊することにした。
  宿の主は曹操を見るなり、
「許劭先生に会われに来たのですか?」
と尋ねた。
  如何にもと答えると、彼はそれならばと懐から地図を取り出した。
「この地図の通りに進めば、許劭先生のところに無事に辿り着くことがで
きます」
  何でも、許劭は普段は人を避けるように、一人町外れに住んでいるとい
う。地図を見る限り林を抜けるのが一番の近道のようだ。
「とりあえず礼を言おう。ところで主人よ、この街もだいぶ賊にやられた
ようだが、お主の馬宿だけ無事なようだな。いかにして難を逃れた」
「それはこの辺りでは我が宿が一番大きく、強い地方豪族の方々が多数お
泊りになられているからです」
「ほう、例えばこれまでにどのようなお方がお泊りになられたのか」
  主人は、大将軍何進や皇甫嵩将軍の名を上げた。いずれも漢王朝の名だ
たる将軍である。
「そうか。主人よ、今日は長旅で疲れているゆえ酒はいらぬ。明日は朝一
番に発つゆえ、宿代は今渡しておこう」
  そう言って、曹操は卓駿に金貨一枚を支払うよう命じた。

  翌朝、まだ日が昇る前に曹操たちは寝床から起きた。主人はまだ眠って
いるのだろうか、姿を現さない。
  曹操は今日に限って、卓駿の馬に乗ることにした。この馬は臆病で、ほ
んの小さな物音を聞いただけでも立ち止まってしまうような駄馬である。
  卓駿は止めたが、曹操は聞かない。仕方なく、彼は曹操の馬に乗ること
にした。
  宿を後にしてまもなく、卓駿が曹操に近寄り呟いた。
「私が夜中起きてみると、ひどく頬が痛かったので何事かと思い起き上が
ってみました。すると、頬にゴキブリが数匹、噛み付いておりました。
  また小便に立って廊下を歩いていましたところ、忙しく出入りする馬の
駆ける音と人の声が聞こえました。さらに廊下の木は腐り、暗がりの中で
は歩くのに不自由でした。今朝起きてみると、床摺れして右腕がひどく痛
みます。
  ただ外見だけが立派で中身が伴わないあのような宿に、なぜ曹操殿は金
貨を支払われたのですか」
  曹操はその質問には答えず、ただ一言、こう言った。
「右腕といえば矛を持つ腕。大切にせよ。いつ使うことになにかもしれん」

  一行は、林の手前まで辿り着いた。曹操はここで一度、立ち止まった。
思ったよりも背の高い木が鬱蒼(うっそう)と生い茂っており、ひどく視界
が狭い。時が経つのは早く、すでに日は出ていたが、林の中は薄暗かった。
「まるで蜀の奥地、雲南のようですな」
  卓駿は、腫れ上がった右腕をぼりぼり掻きながら言った。
  曹操は地面を見た。馬の蹄の跡はあるものの、人が歩いたような形跡は
殆どない。
  彼は険しい表情で叫んだ。
「皆の者、ここからは気を引き締めて行け!!」
  曹操の号令の下、一向は隊列を作って奥へ進んだ。数里行ったところで、
突然、曹操の乗っていた馬が立ち止まった。鞭を軽く打っても先へ進みた
がらない。
  この馬は実に神経質で、度々乗る者を困らせる。茂みで何やら音がした
ので立ち止まってしまったのだ。
  事情をよく知っている卓駿は、曹操の隣に寄った。
「またですか、曹操殿。全く、臆病にも程がある」
  しかし、曹操は彼の言葉には全く応えず、矢を一本、背中から取り出し
た。前方を睨み付け、こう叫んだ。
「皆の者、矢を持て!!」
  辺り一面に、甲高い声が響き渡った。その時、前方の草むらで僅かに何
かが動いた。
  曹操が構えていた矢をその草むらに射ると、男の叫び声が聞こえた。
「皆の者、私と同じ場所に一斉に矢を放て!!」
  伏兵が潜んでいたのだ!!  卓駿達は、一斉に矢を射った。
  しばし叫び声が木霊した後、辺りは急に静かになった。
  配下の者が茂みに近付くと、賊が数十人、矢に当たって死んでいた。
  卓駿は曹操に近付くと、不思議そうに尋ねた。
「なぜ伏兵がいると分かったのです?」
「宿の主が嘘を付いたからさ。あの宿だけが賊の襲撃を受けていなかった
のは、あそこが賊の本拠地だったからだ。主人が地図を我々に渡し、どの
道を通ればよいのかまで教えてくれたのは、そこに伏兵を張るためだった
のだ」
「しかし、主人は大将軍何進様たちが泊まっていたために襲撃を受けなか
ったと申しておりましたが・・・」
「父から何進殿の噂は聞いている。あれは人物評などされては恥をかくだ
けの人間だから、このような場所には現れないだろう。第一、何進殿は地
方豪族ではない。漢王朝の中でも最も位の高い将軍、大将軍だぞ。主人は
誰でも知っているような有名な名前を挙げて、我々を納得させようとした
だけなのさ」
  それでも卓駿は納得しない。
「しかし、ならばどうして我々の寝込みを襲わなかったのです?」
「あそこも表向きは馬宿ゆえ、そうそう人殺しはできん。床に返り血がべ
っとり付いた宿では、客も集まらないであろうしな。人里離れた場所で殺
してしまったほうが好都合というわけだ」
  卓駿はただただ感心してみせた。
  曹操はこの先にはしゃれこうべしかないと判断し、一度町へ引き返すこ
とにした。馬宿を襲撃し主人を殺し、金貨数百枚を戦利品として得た。
  馬宿の従業員たちのシャレコーべを庭に並べ、昼間から酒盛りをしてい
ると、どこからともなく老人が現れた。
「さすがは曹操殿。噂に違わぬ知謀と勇猛さを持っておられる」
「むむ。私の名前を知っているとは。貴方はもしや・・・」
「はい、許劭と申します」
  二人は馬宿の奥に上がり、しばし会話を交わした。
  やがて庭に姿を現した曹操の下に卓駿たちは集まり、こう尋ねた。
「それで人物評の結果は如何に?」
  自分達のボスの器量を知りたいのは、いつの時代でも同じだろう。まし
て乱世を生き抜くためには、有能なボスに仕えることが条件になるのだか
ら。
  曹操は、空を見上げ、満足げに言った。
「治世の能臣、乱世の奸雄!」
「奸雄・・・!」
  絶句する卓駿たちを尻目に、曹操は一人カラカラと笑った。
戻る