紹介 |
字(あざな)は孟徳.身長7尺,目が細く鬚が長い.父の曹嵩は宦官 (男子の大切な場所を除かれて,宮中に仕える官僚のこと)である.
本文(第一話) |
「阿マンよ、お前は子供の癖に狩りや歌舞音楽にうつつを抜かしているそ うじゃないか。そんな事では大した大人にはなれないぞ」 顔を合わせるたびに、叔父は曹操にそう言った。 "疎ましい奴め。" 曹操は日頃からそう思っていた。乱世が近い今、狩りは武人として当然 の訓練であり娯楽と言える。生半可な教養などより、よっぽど我が身を救 うだろう。 もちろん、無能な叔父のこと、こんな事を言えば、ならば歌舞音楽はど うかと聞いてくるだろう。 あそこにはいろんな奴等が出入りしている。宮廷にいる奴等みたいに、 澄ました顔をした権力欲の塊とは違う魅力を持った輩たちだ。 宮廷遣いは見栄えはいいが気が小さく、巨大な権限を持ってはいるが視 野が狭い。護衛なしでは恐くて宮廷の外を歩けぬ者が、なぜこの乱れた天 下を救えようか。 俺が仲間として求めているのは、雑草のように強く、泥のように汚いが、 ひとたび俺が剣を抜いたなら、たとえ相手が都督であっても、共に戦って くれる者たちだ。 曹操は、腹の中で叔父に罵声を浴びせながら、それでも表情には少しも 出さず無愛想に答えた。 「私は叔父さんのようになれる器ではございませんので」 叔父はその言葉に満足しているようだった。この若造め、なかなか分か っているではないか、という心の内が、人を嘲笑うような口元に現われて いる。 もしこれが戦場であったなら、叔父は私の敵ではない、と曹操は思った。 戦場での勝者とは、自分の考えを悟られず、相手の作戦を読み取ってその 裏をかく者だからだ。 曹操は予てから案じていた計略を試してみようかと思った。この際だ、 邪魔臭い叔父さんには我が家からご退場願おう・・・。 叔父は曹操の放蕩ぶりに業を煮やし、父曹嵩に何度か忠告したことがあ った。父は曹操の内に秘める才能を愛していたので狩りや歌舞音楽を止め ようとはしなかったが、叔父の再三の忠告にそそのかされて、最近はもう 少し勉学に励めと注意することが多くなってきたのだ。 曹操は、突然足をぶるぶると震わせ始めた。しかし、鈍感な叔父はそれ に気付かない。そこで、叔父と目が合った時、目玉をグルグルと回してみ せた。 流石にこれには叔父も驚いて、曹操の肩を両手で掴んだ。 「どうした!、阿マン!?」 タイミング良く、曹操は膝を笑わせてその場にへたり込んだ。首を力な く何度も回し、視線は一点に定まらない。口元は痙攣を起こしている。 何が起こっているのか分からぬ叔父に、曹操はさらに駄目を押した。 「おやぁ・・・父上ではありませんか。どうなされました」 「中風か!? 中風にやられたのか!?」 慌てた叔父は、曹操をその場に残し、曹嵩の屋敷へ走り出した。甥の一 大事を早く伝えなければ! そう思ったに違いない。 叔父が低い丘を越え姿が見えなくなった所で、彼は近くの木に登った。 視界が急に広くなり、丘の向こうを慌てふためきながら走る叔父の背中が 見える。 やはり、視野は広くないといけない。とかく人間というのは高い位に就 くと周囲が見えなくなるものだが、大事を成そうとする者は、常に先々を 見渡していなければならない。 しばらくして、叔父が顔を真っ青にした曹嵩を連れて戻ってくるのが見 えた。その姿はまだ豆粒ほどの大きさしかないのに、曹嵩の叫び声が聞こ えた。 「阿マン、阿マン!!」 曹操は地上から十数尺の高さの枝に腰掛けて、足下に二人が辿り着くの を待った。 「阿マン、何をしている!! 早く下りてこないか」 気が狂ったとでも思ったのだろう。木の幹を手で叩き、血相を変えた曹 嵩が叫ぶ。 曹操は何事もなかったかのように笑うと、枝に足を引っかけて、ぐるり と後ろに回転し、逆さになってぶら下がった。 「阿マンよ、何をしている。早く下りてこないか!! 父に言うことが分か るか!?」 心配そうにいう父を尻目に、曹操はカラカラ笑いながら応えた。 「御父上、どうなされたのです。阿マンが木登りが得意なことはご承知で しょうに」 曹嵩は言葉が出なかった。そう、目の前にいる曹操は、普段と何ら変わ らないのだ。叔父もまた、絶句している。 「叔父さんまでどうしたんですか。まさか私が木登りをしている所を見せ るために、父上を連れてきたわけではありますまい」 曹操は、ひょいと飛び降りた。実に身のこなしが軽い。 曹嵩は彼に近付くと、厳しい目つきで曹操の目を睨み付けた。 「どうしました、父上」 曹操もまた、曹嵩を見つめ返した。正常を訴えるかのように、目玉はぴ くりともせず父の黒目と対峙している。 数秒間、二人は一対の実態と影の様に、互いに目を合わせたまま動かな かった。叔父はただおろおろとするばかり。 信頼しあう父と息子にしか聞こえぬ無言の会話が終わった時、曹嵩は頬 をゆるめると、ゆっくりと息を吐き出した。 「いや何、阿マンが突然中風にかかったと聞いて来たのだが・・・。どう やら大丈夫のようだな」 「私はこのとおりぴんぴんしております。中風などとんでもない」 曹嵩は叔父を睨み付けた。これまでの心配が、怒りに変わる瞬間だった。 「きっと叔父さんは私が憎いがために、そんな嘘をついたのでしょう」 叔父は何も言い返すことができなかった。 こうして叔父は曹嵩の信用を失い、曹操の前に二度と姿を現すこともな くなった。