劉表伝

注意: このページに書かれている内容は史実を元にしたフィクションです。

背景
 孫堅の進撃を退けてから、荊州はしばし安定の時を迎えていたが、そんな折、河北を統一した袁紹と、 中原で献帝を擁する曹操の二大勢力がいよいよ激突することになった。
 劉表の元へは両者から味方になってほしいという使者が来るが……。

第三の勢力
 これまで反袁術陣営であった曹操と袁紹は、共通の敵をなくした今、いよいよ激突の時を迎えていた。
 彼らは味方につくよう幾度となく使者を送ってきたが、劉表は立場を決めかねていた。両者の実力を 今ひとつ、計りかねていたのである。
 そこで部下の韓嵩を曹操の本拠地に送り、その様子を探らせることにした。先日無事に戻ってきたので、 本日会見することになっていた。もうじき参内するはずである。

 劉表は寝室の椅子に座りかけては何度も立ち上がった。扉と窓の間を意味もなく何度も往復する。内心穏やかではいられない。
 それには理由があった。
 使者として送った韓嵩が、曹操の元で零陵太守に任じられたのだ。送り出すに当たって、韓嵩の言った言葉が 頭の中を繰り返し流れる。

「もし献帝より官職を賜れば、その時より殿下の臣下ではなくなりますがよろしいですか」

 劉表は承諾した。しかし実際にまさにその通りになると、不安に駆られずにはいられなかった。韓嵩が自分を欺きはしないか……!

 傍使いが韓嵩の参内を劉表に知らせた。
 彼は深いため息を漏らすと、重い足を引きずって部屋を後にした。

 しばらくぶりに見る韓嵩はやや太ったようだ。顔の血色もいい。許都での彼の生活ぶりが窺える。
 彼を受け入れた曹操にしてみれば、大切な使者であるから手厚く遇したのだろうが、凡庸な劉表にそんなことが分かるはずがない。
 彼は疑心を深めて韓嵩に問うた。
「長旅、ご苦労であった。して許都は如何であったか? ……!」
 劉表は韓嵩が臣下の礼をとっていないことに気づいた。彼は顔を挙げると、零陵太守として口を開いた。
「劉表殿におかれましてはご機嫌麗しゅう。今日、私は漢王室の使者として参りました」
 俄かに緊張が走った。
 劉表は内心怒り心頭していたが腹の底にぐっと抑え込むと、韓嵩に尋ねた。
「して、私が先日言いつけておいた件については如何であったか」
 隣にいる良の視線が一瞬、劉表の唇に動いた。
 彼は君主の心を察し、一歩前に出ると韓嵩に言った。
「この件については貴殿が殿下の臣下であったときのものだ。丁重にお答えされるがよい」
 なにげなく臣下の礼をとるよう促したのである。
 しかし韓嵩はそれと気付いていながら、真っ直ぐ劉表に対面するとこう答えた。
「曹操は帝をよく扶け、名立たる豪傑・謀士を揃えております。これには当たらざるべきものがあります」
 劉表は深く頷いた。韓嵩は続けた。
「一方の袁紹は家柄もよく、公孫氏を滅ぼして意気盛ん。やはり当たらざるべきものがあります」
 劉表は今度も頷いて、韓嵩に続きを促した。
「共に当代きっての英雄であることには間違いございません。ただし……」
「ただし?」
 劉表は乗り出しかけた身を慌てて背もたれに押し付けた。
「劉表殿が味方すべきお方は曹操をおいて他にありません。ここは荊州北部を割譲してでも、曹操側に加勢すべきかと」
 その瞬間だった。劉表は腹のうちに押さえ込んでいた黒い空気を一度に吐き出した。
「韓嵩! 貴様、ワシに曹操の臣下になれと申すつもりか!! 恥を知れ!」
 劉表は傍にあった短刀を韓嵩に向かって投げ捨てた。自刃しろ、というのである。
 しかし、漢王室の臣下と自負している韓嵩がそれを受け取るはずもなかった。
 慌てて良が取りなした。
「韓嵩殿、下がられよ!」
 韓嵩はすごすごと数歩下がった。
 なお彼に噛み付こうとする劉表に、良は耳打ちをした。
「韓嵩は漢王室の臣下であります。ここでもし彼を討ち取ったならば、殿下のお名前に傷がつきましょう……」
 韓嵩の裏切りは許しがたいものがあるが、しかしこの場でことを荒立てるのは確かに賢くない。
 そう考え直した劉表は韓嵩に退室を命じた。その一方で、近衛の兵を呼び出し、城外へ出してはならないと命令した。

 韓嵩が出て行った後、室内は異様な静寂に包まれた。誰もが劉表の怒りに触れるのを恐れ、言葉を発することを躊躇った。
 沈黙は劉表が破った。
「ところで、中原では曹操と袁紹が決戦の時を迎えているが、どちらにつくべきと考えるか」
 劉表は群臣を見渡した。目の合った蔡瑁は慌ててうつむいたが、君主の視線が自分に向いていることに気付いて渋々前に進み出た。
「恐れながら申し上げます。曹操は袁紹より戦が十倍上手いですが、兵力は10分の1しかありません。この決戦の勝者・敗者を決める のは殿下の御心一つでございます。とても私が口を挟むことではありません」
 どちらに味方しても勝つ、そう嘯く彼の言葉に劉表は僅かに頬を緩めた。
良、そなたはどう思うか?」
 珍しく良は即答しなかった。韓嵩への仕打ちを 目の当たりにし、君主の怒りを買うことを恐れたのである。
「お前ほどの男でも謀りかねると言うのか……」
 劉表はため息を漏らした。良が謀れぬはずがない とは薄々気付いていた。しかし彼の無言こそが答えであることまでは気付かなかった。
 蔡瑁の言葉に多少安心したのか、勝敗のキャスティングボードを握っていると自負する劉表はこう言って会議を閉会した。
「袁紹殿が動いたとはいえ、早々戦にはならないだろう。もう少し様子を見ることにしよう」


 年が明け、いよいよ曹操と袁紹は一触即発の関係になった。袁紹が軍を南下させると、大胆にも曹操も出陣し、迎え撃つ 行動に出たのである。
 その間、江東の孫策は倒れ、かつて曹操に共に当たった張繍は曹操陣営に加わった。
 この緊迫した状況の中で態度を決めかねている劉表の元に、曹操、袁紹からの使者が頻繁に来ていた。
 群臣の良は主君と荊州の将来を案じ、ついに 主君の部屋を密かに訪ねた。
「殿下。危急のこと故、入室することをお許しください」
良か。うむ。入れ」
 彼は夜空の星を感慨深く見ていた。
「いよいよ曹操と袁紹の戦いが始まるのだな……。今夜はそのことで来たのであろう」
「御意」
 劉表はテーブルのほうへ良を促すと、 皺の増えた顔を手で揉み解した。
「して、そなたの意見は」
「……はい、恐れながら私が愚考しますに袁紹は軍の数こそ多いものの、沮授の兵権を縮小し、田豊を投獄したとか。これでは 稀代の豪傑・謀士を抱える曹操軍を打ち破ることは容易ではありません」
「うむ」
 劉表は目を閉じ、穏やかな面持ちで聞き入っている。
「それでも回りに敵の多い曹操ならば、袁紹でも勝てましょう。しかしここ一年足らずで情勢は激変しました。江東の小覇王は 弱輩の手にかかりすでにこの世にはありません。関中の馬騰も動きを完全に封じられてしまいましたし、汝南の劉備は敗れました。
 その一方で張繍を幕下に加え背後の憂いを絶っております。もはや曹操を脅かすことのできるお方は殿下のみでございます」
「うむ……して?」
「袁紹と曹操、勝者が間違いなく天下を取りましょう。しかしその人物を比べますに、袁紹は英雄ぶっておりますが猜疑心が強く、 賞罰も公正ではありません。一方の曹操は人材をよく集め信賞必罰。どちらかにお味方をしなければならない場合、両者のうち どちらが生き残ったほうが殿下の利益になるかは明らかかと……」
 つまり袁紹では味方をして仮に勝ったとしても、重く用いられることはないということか……。劉表は額に皺を寄せた。
 良は悩む主君にこう付け足した。
「もちろん、どちらにもつかねば、両者の恨みを買いましょう」
 良の本心を知った時、突然、劉表は笑みを浮かべた。
「お前らしくない答えだな」
 彼は自信たっぷりの表情で立ち上がると、窓際に、良に 背中を向けて立った。
「お前なら知ってしよう。韓信という男の運命を」
 良は主君のその一言に思わず落胆した。何を考えているか 全て知ってしまったのである。
「秦崩壊後、漢の劉邦と楚の項羽の戦いが膠着状態になったとき、斉王だった韓信は謀士の諌めを聞かずに劉邦に味方し、 そして見事に漢を勝利に導いた。そして天下が定まった時、用済みとなった韓信は……哀れな最期を遂げた」
 劉表は振り返った。
「なぜお前は曹操に味方せよと私に進言するのだ。お前なら当然知ってしよう。韓信に劉邦側につく事を諌め、独立を勧めた男の名を。 その男の名は……」
 良は劉表と目が合った。促されるまま彼は答えた。
「その男の名は、我が祖先、通……」
 劉表は勝ち誇るかのように髭に手を当てた。
「私は韓信にはなりたくないのだ。よって曹操にも、袁紹にも援軍は送らん。彼らが戦い疲弊するのを待つのみ」
 良は無言のまま退室した。
 空を見上げると、凶星が頭上に輝いていた。

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