漢江の岸に待機していた呉将黄蓋は、前線から命からがら逃げてくる兵士を見て不吉な予感がした。
近くを通りかかった兵士の一人をとっ捕まえると、荒々しい息遣いで尋ねた。
「孫堅様はどうなされた!?」
兵士は涙ぐみながら答えた。
「昨夜、襄陽城から抜け出した敵兵を追っていたところ、待ち伏せに遭い、不遇の……」
兵士にそれ以上のことは言えなかった。黄蓋の鬼のような形相が言わせなかったのである。
黄蓋の目に、遥か彼方から迫りくる荊州兵の姿が映った。まるで狩りでもするかのように、江東の兵
に向かい矢を射っている。
決して見えはしない。しかし黄蓋には、勝利に乗じて攻めてきた彼らの顔に、江東の兵士を侮る笑みを感じた。
「ものども! 船よりいでよ! 幸運にも主君の仇が我らの前に進み出たぞ! この機を逃すな!」
怒り心頭していた黄蓋は、兵士がついて来ぬうちに馬の鞍を蹴飛ばしていた。前方の敵軍の中に、雑兵に紛れて一際
派手な鎧兜を身につけた武将がいる。見覚えのある顔だった。
「貴様は黄祖! まだ生きておったか!!」
黄蓋は彼に向かって一直線に突進した。それを遮ろうとした雑兵は尽く馬のひずめによって踏み殺されたか、さもなくば
一刀のもとに首を撥ねられた。
荊州兵たちは慌てて黄蓋の前から退いた。これまで殆ど向かってくる敵がいなかったため、黄蓋の突進に圧倒されてしまっ
たのである。
広い荒野にして、黄祖の逃げる場所はなかった。たちどころに黄蓋の矛によって落馬し、捕われてしまった。
「それ! ものども! 江東の兵の意地を忘れるな!」
大将黄蓋の活躍を見た江東の兵は再び士気を取り戻していった。一方の荊州兵は黄祖が捕われてしまったので大混乱に陥り、
皆襄陽城へ逃げ始めた。
黄蓋は彼らを追って数百・数千の首級を奪うと、うさを晴らした。
同じ頃、孫堅の首を取った呂公は、長兄孫策と程普によって討ち取られていた。
翌朝、荊州には死体の異臭が立ち込めていた。
劉表はさっそく朝議を開き、そこで初めて呂公の戦死と黄祖が虜になった事実を知らされた。
「なんということだ……」
その後の言葉が続かなかった。彼は 越を見た。
越は主君の怒りをかわすかのように、視線を敢えて
合わさなかった。
ちょうどその時、敵軍から使者が来たことが告げられた。 良
は主君が惑わされてはいけないと取り合わないように勧めたが、使者が桓楷(かんかい)でるあことを知ると、中へ通すよう指示を出した。
以前、交誼があったためである。
「仁義に熱い劉表殿が荊州の牧になられてから、一度もご挨拶に来なかった事をお許しください」
桓楷はまずそう断りを入れてから本題に入った。
「不幸にも劉表殿と我が主孫堅は戦火を交えました。そして我らは主を失い、劉表殿は股肱の臣下を捕われました。
屍といえども孫堅様は我らにとっては大切な主君でありますが、しかし殿下はそれを腐られることしかできませぬ。
また、捕われたとはいっても殿下にとって黄祖は君臣の仲を誓った大切な臣下でありますが、我らには彼を用いることはできず、
やはり斬り殺しその才能を埋没させることしかできません。
これは互いに不幸なことであります。そこで、黄祖と主君孫堅の屍を交換していただきたい」
劉表は喜んで快諾した。彼は何よりも仁を重んじていたからである。
桓楷が退室した後、 良は劉表に詰め寄った。
「なぜ桓楷の言を受け入れたのですか。今は江東の地を治める絶好の機会なのですぞ」
「 良よ。お前のいいたいことは分かる。しかし、
屍をしぶったばかりに生きる黄祖を見殺したとあっては、私は天下に合わせる顔がない」
「何を申されます。仁徳を施すにも力が必要です。江東の地は孫堅以外では確固たる大将を持たず、小豪族がひしめき合っている
状態です。今、攻め込めば容易く平定することができましょう! その後で黄祖の墓陵を建て盛大に祀り、仁政を敷けばよろしいで
はありませんか。小人といえども、殿下を不義理の主君と呼ぶ者はおりますまい」
劉表は 良の言葉に冷ややかなものを感じた。
「もうそれ以上言うでない。仁も義も計略では測り知れぬもの。お前は参謀という立場でものを言っているが、私は臣下を
統率する君主として、行動しているのだ。第一、私は江東に版図を広げる気はない。この機会に孫堅の残党に恩を売り、彼らと
停戦するつもりだ」
良は感嘆した。世が世ならば、今我が仕えている
君主は名君と呼ばれたに違いない。しかし、乱世を生き抜くにはあまりにも人が良すぎる。
「呉王夫差と越王句践の戦いをご存知でしょうか。元より江東は父子の関係が強く、仇敵に対しては深い怨念を抱くものです。
孫堅の遺子はいずれ今日の雪辱に燃え、荊州に攻め上ってきましょうぞ」
良は孫堅の棺が城外へ持ち出されるに及んでも
なお交戦を主張したが、結局劉表の心を動かすことはできなかった。
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