劉表伝

注意: このページに書かれている内容は基本的にフィクションです。

背景
 劉表に恨みを持つ孫堅は袁術の誘いにのって劉表の本拠地、荊州へ攻め上ってきた。
 劉表は黄祖、蔡瑁を派遣したが尽く破れ、襄陽城は孫堅の兵によって完全に包囲された。
 もはやその命運も尽きたかに見えたが……。

秘策
 蔡瑁敗北の知らせは、荊州全土の豪族を失望させた。孫権軍によって幾重にも囲まれた襄陽城はもはや陸の孤島と化し、 州牧劉表の命運は尽きと、誰の目にも映った。

 劉表は眠れぬ夜を過ごしていた。なぜこのようなことに……。後悔の念が夢の中でも彼を苦しめる。

 彼は漢王朝の衰退と共に色あせてしまった文化を荊州で再興しようと考えていた。そのために文化人を呼び寄せ、厚くもてなし、 天下が乱れても平和をどの君主よりも望んだ。そしてその結果がこれだ。

 もし過ちがあったとすれば、あの一度きりだろう。そう、袁紹の命令で玉璽を持った孫堅を攻撃したことだ。
 本意ではなかったが、逆らいもしなかった。責任が自分に来ると気付いていながら認識していなかった。
 すべては自らの不明が導いた結果だ。

 城を囲まれてからというもの夜風に当たることを控えていた彼だったが、今夜は久しぶりに星の下に身を置いた。
 孫堅の陣屋が見える。回りより一際炎の多い場所が、恐らく本陣だろう。総大将にしては意外なほど前線に陣を敷いているらしい。

 ふとその時、劉表の頭上を星が流れ、西の彼方に落ちた。
 彼は不吉な思いがし、その晩は寝室に入っても寝つくことができなかった。


 翌朝、彼は群臣を召集した。しかし、良、越には 城の守備を任せてあるのでこの場にいない。蔡瑁は戦意を失い黄祖は気力を失っていた。
 他の群臣も相次ぐ敗北と勇ましい孫堅の姿を見せ付けられ、誰も志願して彼と矛を交えようとはしなかった。
 すでに万策は尽きているのだ。袁紹に救援を求めるにも、黄祖を城外に出して散々な目にあった経緯がある。
 城の外に出て戦うは、檻を出て獣と戦うようなものである。
 残るはただただ城に篭り、敵の疲れと時の味方を期待するのみである。

とその時、良の声が静寂を打ち消した。

「殿下……」

 皆の視線は荊州で未だ無敗の男、良の元に走った。
 彼は進み出ると、劉表が質問する前に答えた。

「城の備えは越に任せております。それよりも、殿下の お耳に届けたきことがあり、参内いたしました」

 無言の劉表に続けた。

「昨日昼、狂風が吹いて孫堅軍の大将旗を倒しました。また夜になり天を見上げていたところ、今度はケイ星が西の地に落ちました。 いずれも将星が落ちることを暗示しております」

「それは私も見たが……不吉なことを言うな」

 そう言ったのは蔡瑁ではなく劉表だった。蔡瑁は床に視線を向けたまま、良 と目を合わせようとすらしない。

「確かに。しかしあの狂風や星を見たのは我らだけではありません。いや、共に陣を張っている彼らのほうがより多く大将旗が倒れた ことを目撃し、野に陣を張る彼らのほうがよく多く星が落ちるのを見たでしょう。

 破竹の勢いだったころならいざ知らず、遠く敵国に侵入し城を落とせずにいるとなれば、必ず彼らは不安に刈られましょう。 ましてや敵の援軍が背後から迫っているとなれば……」

 劉表は目を見開いた。

「それはまことか……!?」

「いえ。袁紹殿への使者は尽く届いておりません。しかし彼らはそれを知らない。城から抜け出たものが袁紹殿へ救援を求めよう としていたことのみ知るのです。よって時間が立てばたつほど焦り始めましょう。まして大将旗が倒れたとなれば」

「うむ。確かに間者からの連絡では孫堅の取り巻きたちはそのことを不吉に思い、退却を進言したとか。しかし良よ。 孫堅は不安がるどころか一笑に伏したというぞ」

「それこそまさに将星落ちる原因であります!」

 良もすでにその情報はつかんでいた。しかしあえて今 初めて知ったように大声を出し、驚いて見せた。

「兵士は不安がり、大将のみが意気を上げている。これは明らかに敗北の前兆です」

「なぜだ?」

 劉表の質問に、良は答える。

「兵が戦意を失いつつあることを知らずにどうして策を立てられましょう。兵がついて来ぬ事を知らずにどうして 大軍を指揮できましょう。兵が故郷に帰りたがっていることを知らずにどうして突撃して敵を討ち破れましょう!?」

 良はいつになく荒荒しく息継ぎすると、さらに続けた。

「古の名将は兵が戦意を失えば鼓舞し、ついて来ぬことに気付けは引き下がり、故郷に帰りたがればあえて死地に陣を敷 きました。ところが孫堅は兵が疲労し退屈していながらなお悠長に構え、士気が下がっていながら実力を過信し、故郷に帰 りたいと自らも思いながら意地を張って退却いたしません。これこそ孫堅の命運が尽きたことを示すものであります」

「……何かよい案はあるのか?」

 力ない劉表の言葉に、良は頷いた。

「孫堅は進むことを知りながら退くことを知りません。『進む勇気はわが身を殺し、退く勇気はわが身を生かす』と申します。 ここは一つ、強い馬と弓の名手を揃え、油断している敵の囲みを破ってケン山に上るべきかと。あそこはすでに蔡瑁殿と一度 戦っておりますから敵も地理について多少の知識を持っております。警戒を怠り、必ず勇んで追ってきます。
 そこを闇にまみれて一斉に矢を放てば、必ず一網打尽にすることができます。あとはそのまま北へ向かい、袁紹殿に援軍を 求めればよろしい。緊張感の薄れた孫堅軍は袁紹殿の軍がこちらに向かったという知らせを聞いただけで打ち震え、四散して しうまでしょう」

 良の弁舌に、劉表の顔に微かな希望が見えた。
 彼は膝に手を当たると僅かに身を乗り出し、群臣に問うた。

「誰か、この劉表の為に大役を担ってくれる者はおらぬか!?」

 その言葉に進み出たのは、呂公だった。蔡瑁・黄祖はすでに孫堅の強さを身にしみて感じていたので志願できない様子だ。

「呂公ならば適任かもしれん」

 良も頷いたことで、劉表の心は決まった。

「呂公。お前に精鋭500騎を授ける。城内から好きな兵士と軍馬を連れていくがよい」

 呂公は謝辞を述べると早速退室した。
 沈黙を続ける蔡瑁は呂公の勝利を祈りながらも、良 の策が失敗することを密かに願っていた。

 呂公によって孫堅の死が告げられたのは、それから数日後のことだった。

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