劉表伝

注意: このページに書かれている内容はフィクションです。

背景
 孫堅は董卓討伐軍に参加した際、洛陽で玉璽を見つけたが、そのために袁紹の指示で玉璽を奪いにきた劉表軍に手痛い 目にあった。
 彼はやがて袁術に誘われて劉表の本拠地、荊州を攻めることになった。
 破竹の勢いで攻め上った孫堅に対抗するのは……。

愚鈍な大将
 蔡瑁は一万余騎を率いて襄陽の東、ケン山に陣を張った。

「江東の鼠め。董卓をも恐れた武勇と噂される奴を討つことが出きれば、俺の名は天下に轟くことだろう。
 劉表とて無視できなくなるはずだ。うまく姉上が男子をもうけてくれれば……」

 蔡瑁は細く微笑んだ。月の光が彼の口元を青白く照らし、真っ黒い魔物のような木々が風に吹かれて怪しくざわめいている。
 傍にいた護衛の兵士は、この異様な雰囲気と蔡瑁の底知れぬ野心に、思わず息を殺した。彼の独り言には気付かなかった振 りをして、ただただ夜が明けるのを待った。

 明け方、孫堅率いる軍が霧の立ち込める荒野を行軍してくるのが見えた。
 蔡瑁は音を立てて膝を叩くと、全軍に檄を飛ばした。

「よいか、ものども! 敵はあくまでも孫堅ただ一人! 奴の首を取れ! ザコには構うな!」

 蔡瑁は兵法どおり、山を背後にして陣を構えていた。勝てる自信はあった。彼は全軍を一斉に敵軍目指して突撃させた。

 蔡瑁自身、果敢に馬に鞭を加えるとその先頭に立ち、孫堅軍の本陣へなだれ込んだ。
 すると前方に雑兵とはまるで井出達の異なる武将が馬にまたがっているのが見えた。

「あれは孫堅か!? これぞ天の扶け! ええい、奴を討ち取るのだ!」

 しかし、彼に向かって突進しようとした瞬間、蔡瑁の前に大きな陰が立ちはだかった。

「むっ邪魔するな!」

 蔡瑁は矛を振り下ろしたが軽くかわされると、敵の頑強な矛が目前に迫ってくるのが見えた。
 慌てて矛を返しそれを受け止めるものの耐えきれず、危うく落馬しそうになった。

「こ、これが蛮族の兵(つわもの)か……。強い……強すぎる……!」

 数合も打ち合わぬうちに蔡瑁は鞍を返すと、突撃してくる味方の兵士の間を縫って逃げ出していた。
 無意識だった。無意識でなければできないことだった。総大将が敵前逃亡することなど……。
 ただ全身を死の恐怖が襲い、名誉も富も権力も、何の意味も持たないことを悟っていた。

 蔡瑁軍は大将の逃げる姿に動揺し、前線の兵士から離散し始めた。それは後方から戦いを見ていた兵士にも伝わり、 全く収拾がとれない状態になった。
 乱れた軍旗の中を孫堅率いる江東の兵が駆け抜けると、真っ赤な河と物言わぬ無数の人の抜け殻が残された。
 戦場は荊州内、兵士達は我先へと逃げ出し、一万余騎はケン山より忽然と姿を消した。


 戦果はすぐに襄陽の劉表と良・越にももたらされた。
 劉表は深い溜息を漏らししばし呆然とした。黄祖に続く連敗。これで襄陽城が孫堅軍に囲まれるのも時間の問題だった。
 今更和平など、口にもできない。袁紹へ援軍を求める使者を送るにも、城を囲まれてからでは困難を極める。

 悩む君主の前に、帰還した蔡瑁が姿を現していた。すでに出陣する前の覇気はない。乾いた泥のついた頭は、一夜にして 白髪に染まってしまったようだった。

 劉表は彼の顔を見るなり、怒鳴りつけようとした。しかし、今はそれどころではない。
 第一、君主たるものいつ如何なる時でも冷静でなければ、配下の者が不安がってついてこなくなるだろう。 感情をすぐ顔に出すような君主は、その器の小ささを露見させるだけだ。
 劉表は乾いた唇をゆっくりと開いた。

「ご苦労であったな、蔡瑁。今はしばしの休息を取るがよい……」

 打ち首も覚悟していた蔡瑁は、劉表の言葉を聞くとほっと肩の力が抜けていくのを感じた。
 しかし、この甘すぎる君主の言葉に噛みつく者がいた。良だ。
 彼は蔡瑁に退出されてはまずいと、衛兵に目配せをしてまず入口の扉をふさぐと、劉表の前に進み出た。

「どういうことだ、良」

 尋ねる劉表に彼は答えた。

「蔡瑁殿は陛下の大切な兵を一万もお借りしておきながら、お返しなになったのは数百に過ぎません。これは臣下として義に 背くものでございます。
 また、陛下の御領土を血で汚した上、敵に奪われてしまいました。にもかかわらず、わが身可愛さのあまり逃げ帰って参り ました。これは臣下として君主の仁に応えぬ不徳の行いです」
 そう言うと、彼は軍法の書かれた書物をおもむろに取り出した。

「兵を失い兵糧を奪われ、さらに領土まで蹂躙されて得るもの何もなし……。蔡瑁殿の罪は明確であります。どうぞ斬首をお命じくだ さい」

 劉表もこれには困ってしまった。しかし蔡夫人のことがある。そう容易く斬り殺してしまっては、合わせる顔がない。
 しかし凡庸な彼には、蔡瑁の命を救う明確な論拠を見つけることができなかった。
 やむを得ず、彼は良にこう言った。

「今は国家の一大事。このような時に腹心の部下を斬って城内の兵士を動揺させてはならぬ。蔡瑁は戦の疲れを十分に取り、再起 に備えよ」

 蔡瑁は安堵の、良は失意の溜息を漏らして退出した。

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