劉表伝

注意: このページに書かれている内容はフィクションです。

背景
 董卓が長安に遷都した後、大陸はいよいよ群雄割拠の時代を迎える。
 その中でまず二大勢力にのし上がったのが、袁紹と袁術であった。袁家は四代に渡り三公を輩出した名門であり、 その名の下に多くの士人が集まったのである。

 両者は互いに牽制しながらも、袁紹は華北統一を目論み公孫 と、袁術は荊州奪取を目論み劉表とそれぞれ対立することになる。

 一方、袁術の勢力下にあった孫堅は、洛陽から玉璽を持ち帰る際、袁紹の指示で玉璽を奪いにきた劉表軍に手痛い 目にあっていた。
 そこを袁術に利用され、孫堅はついに劉表討伐に向かったのである。

孫堅の猛攻
 荊州の州都、襄陽には重苦しい空気が流れていた。
 呉の孫堅軍が荊州に押し寄せ、先鋒として向かわせた黄祖が大敗を喫したためである。
 事態は一刻を争っていた。このままでは襄陽が孫堅の兵によって囲まれるのも時間の問題である。

 集められた幕僚の中で、声を出す者は誰もいなかった。
 劉表は良を一瞥した。彼は地面に撃ち付けられた棒のように背筋を伸ばし立ち、劉表とは目を合わせず ただ前を見ている。
 劉表は深いため息をついた。

 今回の黄祖の敗北は、良の策によるものだった。彼によれば、まず黄祖に江夏の軍を率いさせて先鋒とし、 劉表には荊州・襄陽の軍勢を率いて後詰してもらう手はずだった。
 しかし実際は孫堅の勢いが予想以上で、黄祖はあっけなく敗走してしまったのである。

 沈黙を破ったのは蔡瑁だった。彼は劉表の視線が未だ良 に向いていることを悟ると、軽くお辞儀をした後、一歩前に出た。

「恐れながら申し上げます」

 群臣の目が、一斉に蔡瑁の下に集まった。
 劉表は無言で僅かに頷き、蔡瑁が発言することを許可した。

「私めに孫堅討伐の命令をお与えください。必ずやあの忌々しい首を殿の御前にお持ちしましょう」

 鋭い目をしている。しかしそれは勇者というより獣というべき光を発していた。

「何か良い策でもあるのか?」

 不安な顔をして尋ねる君主に、彼は答えた。

「策? そのようなものが必要でしょうか? 孫堅はただ突進してくる猪のようなもの。知略の欠片もございません。 これを打ち破るのにどうして策など必要ありましょうか。荊州は我らの地。この地の利を活かして戦えば、我らに敗北 などありません」

 その言葉に良は細く微笑んだ。
 目ざとい蔡瑁はそれを見逃さず、すかさず彼に食って掛かった。

「黄祖の敗北を予測できなかった良殿、何か ご不満がおありかな」

 彼は飴玉を舐めるように、「クチャリ」と音を立てて笑った。

「……地形に詳しいというだけで勝利を掴めるならば、これほど容易いことはないでしょう」

 そこまで言うと、良は劉表に向き直った。

「孫堅は戦にかけては天下一品です。この勇猛果敢な猪には当たらざるべきものがあります。ここは守りを固めて袁紹殿に 援軍を求めるべきかと」

「文官の良殿ならではの案だな」

 蔡瑁はと劉表の間に入る形で前に進み出た。

「城に立て篭もって震えろと言うならば、みすみす烈火の如き孫堅の勢いに油を注ぐようなもの。
 ここは勝利に酔って緊張感が薄れている孫堅軍を急襲すべきかと。戦は将軍がするものです。 文官の良殿は確かに学問には 優れていますが戦場を知りません。是非とも私に出陣のご命令を……!」

 息巻く蔡瑁に対し、良は少しも物怖じせず、 自らも劉表の前に進み出るとこう答えた。

「そもそも兵法では、自国の領土で戦うと兵は離散しやすいと申します。一方の孫堅軍は漢水を渡り、敵地深くまで進ん で来ました。いわば死地にいるのです。たとえ連勝していたとしても彼らは油断することなく、この襄陽へ向かって攻め込 んでまいりましょう。
 蔡瑁殿の言った通り、孫堅は猪のような武者。この猪相手に正面から向かったのでは、勝ち目はありません」

 劉表は先ほど蔡瑁に尋ねてから声一つあげず、二人の意見を目をつぶって聞いていた。指で椅子の手掛けを叩いているのが、 唯一彼が眠りについていない事を教えていた。

「殿、時間がありません。ご決断を!」

 劉表の瞼が開いた。群臣を一堂に見ると、顔をまともに合わせたのは蔡瑁と良、 越兄弟のみであった。
 思わず失意の表情を見せた彼に、良は言った。

「殿は猪狩りの名人の手法を知っておられますか?」

「いや知らん」

「猪は攻めるにしても逃げるにしても、まず母親が先頭を走り、その後ろを子が続きます。そして最後尾を父親が走ります。
 この状態が、猪の最も勇猛な陣形であり、当たらざるべき勢いを持ちます。
 家族を統率する母とそれに着いていこうとする子供の習性、さらに子供の尻を見て走る父の習性を最大限に活かせるからです。

 しかし、この無敵の陣形も、ひとたび狂えば烏合の衆以下に成り下がります」

「また得意の弁舌が始まったか……! 戦は学問では計り知れぬもの。これ以上陛下を迷わせるようなことは、忠臣として慎む べきではないか!?」

 良のペースにはまる事を恐れた蔡瑁が口を挟んだ。
 しかし良は淡々と論じつづけた。

「猪狩りの名人は、母猪を狙います。母猪さえ殺してしまえば、もはや家族は統率が取れなくなるからです。
 母を失った子猪達は、次に体の大きい父猪の後を追おうとしますが、そもそも父猪は子猪の尻を追う習性があるため、 彼らは攻めるどころか逃げることもできずに、ぐるぐるとその場で回り始めてしまうのです。
 名人はこうしておいて、ゆっくり弓を引くので家族もろとも捕らえることができるのです」

「何が言いたい!?」

 蔡瑁の声には隠しようのない苛立ちが篭っていた。

「今、孫堅軍はまさに向かうところ敵なしの勢いではありますが、これはひとえに猪の如き孫堅という大将がいるからに 他なりません。
 逆を言えば、この大将さえ倒してしまったならば、たとえ蛮族の呉の兵士がどんなに強くても、我らの敵ではありません。

 ここは勢いに任せて侵入してくる敵を充分ひきつけた上で守りを固め、袁紹殿に援軍を求めるべきかと。背後から敵の援軍が 来るとなれば、敵地深く進入した孫堅は引くに引けず、必ずや無理な突撃をしてくるでしょう。そこを討つのです」

 劉表は良の言葉に頷きかかった。しかしその時、 娶ったばかりの蔡夫人の姿が目に入った。衝立(ついたて)の陰から、いつになく険しい目でこちらを睨んでいる。
 部屋の中に視線を移すと、真っ先に蔡瑁と目が合った。
 やはり兄弟か……。劉表は思った。同じ目をしているのだ。

 結論を出しかけて、劉表は再び考え込んでしまった。話を聞けば良 の意見が正しいことは分かる。
 しかし、妻の弟の顔を潰すわけにもいかない。
 苦心の末、劉表は一つの口実を思いついた。

「これ以上孫堅の進入を許せば、襄陽にまで敵兵は及び、平和を求めてこの地に移り住んでくれた罪のない民衆を苦しめる ことになる。
 ここは蔡瑁の言うとおり、討って出ることにしよう。蔡瑁、すぐに兵を集めて出陣せよ!」

 重苦しかった空気が、ふわっと動いた気がした。
 退室際、蔡瑁は良を嘲笑うかのように笑った。

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