乱世は終焉へと向かっていることが誰の目にも明らかだった。漢王朝末期に数多と割拠した群雄も、残すところ北方の曹操、江東の孫権、
そして辛うじて独立を保っていた蜀の劉
と荊南の劉備、
それに漢中の張魯程度であった。
そして今、同族でありながら荊南の劉備が蜀の劉
を
併呑しようと行動を起こした。
劉備は軍師として
統を、
将軍として魏延を一軍に加え、蜀への侵攻を開始した。緒戦で苦戦を強いられたものの、諸将の能力、
兵卒の訓練度・士気共に蜀軍は敵ではなかった。
戦っては敗れることが多かった劉備はこれまでの半生を振り返り、「軍師」と呼べる人材が如何に重要であったか、
そして幕下に不足していたかを思い知らされた。
戦勝が続くにつれて緊張がほぐれた彼は、ある時つい口を滑らせてしまった。
「ああ、戦とはなんと楽しいものだろう」
即座に諌めたのは
統だった。
「仁君ともあろう方が、他国を攻め取って楽しいとは何事ですか」
劉備は我に返り
統に詫びると、以後軽率な言動を
控えるよう気をつけた。彼は兵法では曹操、孫権に到底及ばなかったが、この資質があったからこそやがて第三の勢力として並び建つことになる。
さて、劉備が隊列をなしてある邑(むら)に差し掛かった時のことだった。すでに漢王朝の末裔としてその名を天下に轟かせていた彼を一目見ようと
村人たちが道に出て一行を迎えたことがあった。蜀は中原に比べればまだまだ未開の地であり、文化も遅れている。村人たちは漢の王室の血を引く
劉備がどのような馬車に乗り、どのような衣服を身につけ、どのような奇怪な戦車を引き連れているか期待に胸を膨らませていたのである。
しかし彼らの期待は見事に裏切られた。劉備は使い古した、これといって文明的でもない鎧を身にまとい、真新しい兵器ももっていない。唯一
彼のまたがっている白馬だけが、その人こそ劉備であるということを示すのみだった。
「なんだ、劉備殿も噂ほどの人だけはないらしい・・・」
村人の一人がうっかりもらした言葉が、魏延の耳に届いた。彼は烈火のごとく怒り、劉備に彼らを皆殺しにすることを願い出た。
「我が主君を侮辱されて黙って通り過ぎるわけには参りません! どうぞ、奴らを斬り殺すことをお許しください!」
しかし劉備はすぐに答えず
統を呼んだ。
統もまた、魏延と同意見だった。
「漢の王朝が成る遥か昔、周王朝末期の戦国時代に戦国四公子なる名宰相が現れました。そのうちの一人孟嘗君は平原君の所へ立ち寄った際、
趙の人々に侮辱され、皆殺しにしたことがありました。しかしそれでも孟嘗君は名宰相として今に語り継がれています。
たとえ殿下がここで村人を殺したとて、それが御名を傷つけることにはなりますまい」
それを聞いた魏延の腕にはいよいよ力が入る。
しかし劉備は皆殺しを許すどころか、自分が立ち去った後、村人たちに大切な兵糧を配るよう
統に指示を出した。
統は劉備の真意を見抜き、早速兵糧を配る手はずを整えたが、
解せないのは魏延である。彼は劉備に直接不満をぶちあけることができず、
統
の元へとやってきた。
「俺には劉備殿の考えがさっぱり分からぬ! なぜに自分を愚弄した者どもに施しをするのか!」
統は升を片手にこう答えた。
「我らはもしかしたらとんでもない君主に仕えているのかもしれませんな」
「どういうことだ!?」
「では貴殿にも一役かってもらうことに致しましょう」
統は米俵を魏延の馬に積むよう、兵士に指示を出した。
劉備の一行が立ち去った後、
統と魏延は村人たちの歓喜の声の中にいた。
村人たちは一列に並び、順に兵糧を配られた。やがて劉備を愚弄した村人の番になった。
「お前は劉備様をあざ笑った者だな」
魏延がものすごい形相で睨みつけると、その村人はたじろいだ。
そこへ隣にいた
統が彼に兵糧を差し伸べてこう言った。
「お前の言うことももっともだ。確かに劉備様の身なりは決して高貴ではない。しかし、幾つもの郡を治めるまでになった劉備様が未だ粗末なものしか
身につけないのは、飢え、疫病、そして戦乱に苦しむ民にこうして富を分け与えるためなのだ。それを忘れてはならぬぞ」
統の言葉に涙しない村人は一人としていなかった。
よそ者が侵入してきた場合、民衆はそれに支配されることに抵抗するものである。
しかしやがてこの噂が国中に伝わり、入蜀後、劉備の統治を拒む民は誰一人いなかった。