劉備伝(番外編)

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スープの香り
 赤壁の戦い後、劉備の勢力拡大を恐れた孫権と周瑜は、孫権の妹との婚姻を持ちかけて誘い出し、劉備を人質として荊州の 地を得ようとした。しかしこの企みは諸葛亮によって見抜かれ失敗していまう。

 そこで周瑜は劉備に美女と美酒を与えて骨抜きとし、天下の豪傑、関羽・張飛との間を裂こうと計画した。
 この計画は初めうまくいったように見えた。くる日もくる日も劉備は女に耽り、酒を食らっていた。劉備に同行した 趙雲も次第に心配になり始めていた。
 そうこうする内に歳末になり、趙雲は諸葛亮より預かった秘策の書かれた手紙を開き、劉備に詰め寄った。

「将軍、この地に来てよりだいぶ日もたちました。そろそろ本拠地へ帰ろうではありませんか」

「趙雲か……。まあそう急ぐな。私は今までどこへ行っても苦労続きであった。ここいらでしばしの休憩をしたいと思う」

「ならば将軍、荊州が曹操の手に落ちてもよいというのですか!?」

 劉備はハッとした。あれだけ苦労して取った荊州が……まさか。

「それはまことか、趙雲」

 趙雲は静かに答えた。

「つい先ほど、諸葛亮殿より使者が参りました。すでに曹操が荊州に攻めかかっていると! もはや一刻の猶予もなりません。
 君主なくして諸侯はまとまらず、将軍なくして兵士はまとまらず、領主なくして民はまとまらないと申します。
 荊州に残してきた皆様が将軍の帰りを待っておられるのは必定。どうぞ、ご決断を!」

 劉備は部屋の外に目を移した。彼はおもむろに立ち上がると扉の所までゆっくりと歩き、廊下、庭先を見回してから振り返った。
 つい先ほどまでの彼とは別人のような表情をしている。まさに戦場を駆け回っていた頃の、あの険しくも高潔な目をしていた。

「それは諸葛亮の計であろう」

 劉備は小声で呟いた。
 趙雲は慌てて否定しようとしたが、その前に劉備が口を開いた。

「荊州からの使者ならば、まず私の所に来るはずだ。仮に使者が趙雲、お前に何かを話そうとしても、律儀なお前の ことだ、必ず辞退して私に使者が来た事を伝えるだろう。おそらくは、諸葛亮から策を授かってのことだろう、趙雲よ」

 趙雲は何も言い返すことができなかった。
 そんな彼に劉備は近づくと、彼のみ耳元で呟いた。

「お前にもだいぶ心配をさせてしまったな……すまぬ。こうするしかなかったのだ」

「そ、それでは今まで遊び呆けていたのは……」

「うむ。周瑜の目を欺くためだ。私が女に現を抜かしていると思えば、奴らの警戒も少しは弱まろう」

 趙雲は顔を上げた。確かに、目の前で見る劉備の瞳から輝きは失われていなかった。

「美女も美酒も、できたてのスープの香りのようなものだ。人の欲望を掻き立てはするが、どんなに吸い込んでも 腹を満たしてはくれない。
 私には成し遂げたい大義がある。天下に名だたる豪傑の義兄弟(きょうだい)が2人もいる。稀代の智謀の臣がいる。 そしてお前のように命を削り私に仕えてくれる者もいる。どうしてこの大切な仲間を忘れ、実体のない空気のような 女と酒に溺れる事ができるだろう」

 趙雲は嬉しさのあまり涙が止まらなかった。

「時は満ちた。それは諸葛亮の策が証明している。私は帰るぞ! 我が仲間のいる故郷へ!!」


 建安15年元旦、劉備は婚姻を交わしたばかりの孫権の妹を伴って、ついに江東を脱出した。

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