本日の御題:今の日本の政治に必須なのは、君主論

◆政治家としての最低限の教科書
最近の日本の政治家を見ていてつくづく感じることだが、彼らかは政治家になる前は何をしていたのだろうか? 防衛大臣が「軍事については素人だ」と発言したこと然りだが、国家の政に参加するのであれば、最低限の教養というものは身につけていなければならない。

それは、政治家になってから勉強すればよいものではなく、若かれし頃から志を持ち、常に勉強し続けることによってのみ得られるものだ。政治家になってしまってからでは、目の前の事案に追われたり、選挙に追われたり、とてもとても教養を身につける時間などないからだ。

私が名著としてお薦めしたいのは、次の3点だ。詳しくはここでは書かない。これらのエッセンスを十分伝えるためには、それなりの文字数が必要だからだ。

○自助論・・・サミュエル・スマイルズ著
自助の精神というものがある。それは、誰かから言われてやるのではなく、自らが自らのために奮い立ち、行動するということだ。それこそが人生を成功させる秘訣だとも言う。言うほど簡単なことではないが。これが書かれたのは英国が先進国病に苦しんでいた19世紀後である。人は社会が豊かになると、自らが努力しようという気持ちが薄らいでしまうものらしい。

○君主論…ニッコロ・マキュアベリ著
彼はイタリアがまだ分裂国家だった頃のフィレンツェの官僚である。独自の軍備を持たない経済大国は、フランスやスペイン、ドイツ、あるいはイタリアの群雄たちの間に入り、うまく立ち回ることを強要された。しかし、他国の力や傭兵を当てにする政治には限界があり、国益を損ねる。上に立つ者は、時に非常な決断をすることがあっても、決して恨まれたり、ましてバカにされたりしてはならない、と説いている。

○韓非子…韓非著
人の心理を、非常にうまく捉えている。君主が部下に与えてはいけない権限であったり、どういった者には気をつけなければならないか、などが書かれている。秦の始皇帝がこの書物を読んだとき、「これを書いた者に会えるならば死んでもいい」と言わしめた名著だ。

他にも、クラウゼビッツの戦争論や孫子なども政治家には必要な書物だろう。これらに共通しているのは、合理的・実践的であり、なおかつ応用次第ではいくらでも現代に通用するということだ。

政治学としての制度を学ぶことも大切だが、人の動かし方や、注意しなければならない人などについて、あるいは敵が策略を用いてきたときの対処法などについて知らなければ、それは生きた政治学とは言えない。

◆王は貴族ではなく平民に目を向けるべき
話が長くなった。

君主論で、マキュアベリは面白いことを言っている。

王は貴族の支持がなければならないし、国によっては貴族の中で最も力の強いものが王となることもある。貴族によって選ばれたと言うことは、同時に王は貴族の意見に耳を傾けなければならないと思われがちだが、実際は逆らしい。

貴族にとっての良いことは大概平民にとっては悪いことである。王がもし貴族たちの顔色ばかりを伺い、平民たちを苛めるような政策をとったらどうなるだろうか? 貴族達は今の政治が悪いのは全て国王のせいだとして、王の首の取っ替えをすることで自らの身を守ろうとするだろう。

国王を選び、国王にすり寄っていたはずの貴族たちは、簡単に平民側に立つことができるのである。

マキュアベリは、国王は貴族の顔色など伺わず、平民の側に立つべきだと述べている。なぜなら、仮に貴族から不評を買ったとしても、平民からの支持が厚ければ、貴族は謀反を起こすことができないからだ。仮に王を倒したとしても、平民から人気のある王に取って代わり、国を治めることは至難の業だろう。

まして、平民から人気があるというだけで、貴族は同調する他の貴族を得ることが難しくなる。つまり、謀反を起こしたい貴族は、少ない協力者のみで反乱を起こさねばならず、下克上の成功率も自ずと下がるというわけだ。

この関係、現代の日本のなにかに似ていないだろうか?

そう、国王を総理大臣、貴族を国会議員、平民を国民に置き換えると見事に当てはまるのである。民主党政権になってから特にその傾向にあるが、巨大政党でありながら過半数を取れないばかりに、極めて小さい政党のご機嫌を取ったり、党内の大派閥(小沢派)へ神経を使ったりと、総理大臣は国民ではなく、国会議員に向いて政治をしているように思える。

しかし、その結果が生まれては消えていく短命内閣の連鎖だ。私は当初から支持をしているが、それは野田内閣にも同じことが言える。

消費税増税を目指す野田総理の内閣改造が明日13日にも発表されるようだが、消費増税に関する与野党協議の環境を整えるには、幹事長時代に自民、公明両党との対話路線を主導した岡田氏が適任と野田総理は判断したようだ。しかし、同時に彼は小沢一郎元代表の党員資格停止処分を主導した経緯があるため、党内の小沢派が反発するため、入閣は未定だという。

入閣をお願いするのもしないのも、そこに国民の文字はない。全ては国会議員(貴族)の顔色を窺って行っているのだ。これほど危険なことはない。閣僚を選ぶのであれば、派閥の論理(貴族の顔色伺い)ではなく、真に自分のポリシーを共感してくれる人を選ぶべきなのだが……。

派閥の論理で選べば、選んだ後も派閥に振り回されることになる。それでまともな仕事ができるだろうか? 結局、意見がまとまらず、優柔不断な結果しか残せなければ、総理大臣の支持率は下がり、同時に掌を返したように国会議員たちは総理の座から引き下ろすのである。まさに総理の椅子がスケープゴート(生け贄)になるのだ。

こんなことを延々と繰り返しているのである。

しかし、短命内閣が続いている昨今の日本にて、唯一比較的長期に総理大臣をしていた者がある。小泉総理である。彼は、国会議員たちが何を言おうがお構いなしに、自らの信念を貫き通した。もちろん、それを国民が支持したからである。彼は知ってか知らずか、マキュアベリの君主論を実践していたのである。

国民の支持を背景にして、国会議員(貴族)たちを睨み付け、説き伏せてきたのだ。

近代日本の政治において、マキュアベリの正しさが明確に証明されているのだ。

故に私は言いたい。日本の総理は国会議員によって選ばれるという点で間接民主主義であり、国民の意見が通りにくいのだ…なんて言い訳はよしなさい。総理となったからには、国民の幸福が全て。国益が全て。国会議員たちが何をどう言おうが、国民の支持が総理側にあれば、彼らは抵抗できないのだ。国民によって支持されている法案を否決することはできないのだ。

国会議員など、恐れる事なかれ。

どうか、今必要なことを声高に叫び、掲げ、そして反対勢力への安易な妥協などに奔らず、堂々と、粛々と法案を通していただきたい。それができなければ、民主主義など制度だけのものになるだろう。

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