本日の御題:日本の教育を改めよ

◆競争は努力を保つモチベーション
ゆとり教育の見直しがされたのは記憶に新しい。

昭和40年代後半のベビーブーム世代が受験生であったころ、熾烈な受験戦争と、それに心を病んだ者たちの問題が社会問題としてクローズアップされ、詰め込み教育の見直しと、偏った偏差値評価にメスを入れるべく、教育改革が行われた。

偏差値とは、まさに相対的な評価であり、この評価方法にはひとつ重大な問題点があると、私も学生の頃、教師から教えられたことがある。それは、全ての人が、決してよい評価を取れないと言うこと。相対評価である以上、100人のクラスで100人全員が頑張ったとしても、1位もいれば100位もいる。それは理不尽だというものだった。

みんなが頑張って100点を取ったら、順位ではなく「100点」という評価を与えるのが絶対評価である。

私はその教師の話を聞いて、理にはかなっているが、重大なことが欠けていると学生時代に感じたのを覚えている。それは、もし100人が100人努力し、競い合ったとしたら、その結果は、たとえ1位と100位が生まれようとも、努力しなかった1位と100位とは比べものにならないほど、実り豊かなものになるだろうということ。

競争した100位は競争しなかった1位に勝るとも劣らない価値があるのではないかということ。

競争がなければ、人類は100mを10秒を切って走ることはできなかっただう。手を繋いで、横並びで、ニコニコしながら走っていたら、超人的な筋肉、精神力もまた身につかなかっただろう。

互いに競い合うライバルがいて、それに負けたくないと思う気持ちこそが、健全な精神をはぐくむものだと私は信じている。

かつて、オリンピックのマラソンで脱水症状に陥り、フラフラになってゴールした女性ランナーがいた。彼女のタイムはオリンピック出場者としては自慢できるものではなかったが、世界は彼女を非難しただろうか? あざ笑っただろうか? 否、拍手で迎えたのではなかっただろうか?

努力は、する者も、それを見守る者も、共に成長できる要素だ。

そして、努力を続けるモチベーションを保つには、競争が必要なのである。努力をしようがしまいが同じであるならば、努力しようというモチベーションを保つことは容易ではない。

◆日本で日本人の若者が失業するという現実
しかし、相対評価を嫌う者たちによって、日本の教育レベルはここ数年で格段に落ちてしまった。昨年(2010年)の世界的な学力を測る結果では、持ち直しつつあるそうだが、私は懐疑的だ。一度低下した学力は、そんな簡単に回復することではないからだ。

日本の社会は今、厳しい環境に置かれている。
不況しか知らない若者たちは消費に消極的であるという。一向に内需が上向かないのも無理はない。

しかし、それを非難することはできないだろう。

彼らが直面している就職氷河期は、過去最悪の寒波に見舞われているからだ。

最近、新聞を賑わしているのは、企業の外国人の採用増である。海外展開を考えている企業が多いのも理由のひとつだが、それ以上に、日本人の学生より外国人学生のほうが優秀であること(学力だけではなく忍耐力等含む)が理由のようだ。

日本国内で、日本企業が、日本人の学生に期待していないということである。

なんとも悲しい現実ではないだろうか? 学生たちは、ゆとり教育の中、波風立たない人生をこれまで送ってきた。競争とは無縁とまではいかないまでも、極力ない世界で生きてきた。

しかし、社会に出れば話は全く別である。会社の中でも、会社の外でも、全てが競争である。同期よりも先に仕事を覚えるのも、他社よりよい品質の物を安く早く提供するのも、全て競争である。そこで競争をしなければ、その企業は衰退し、やがては消滅する。

この荒波の中に、競争を知らない者たちが放り投げられれば、離職率の増加や鬱の発症などの問題が起こるのは当然の帰結だ。

学生は一生学生のまま終えるのではない。必ず社会に出て行くものだ。
その時に必要な能力を身につけさせるのが教育である。それが身についていなければ、日本の労働市場は諸外国の若者によって席巻されてしまうだろう。

ゆとり教育なんて馬鹿な政策が、結果として若者を苦しめているという現実を、教育界は直視すべきである。競争させず、苦労をさせず大人になることが、どれほどその人間にとって不幸なことであるかを知るべきである。

最後に私が子供の頃によく言われた言葉をここに記す。

「若い内は、沢山苦労をしなさい。それは必ず将来役に立つ」

社会にそういう気風が残っていた頃の日本は、いまよりずっと元気だった。

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