日本が不況から脱することのできない本当の理由

◆デフレ、少子化だけが問題ではない
1990年代から始まった長引く不況は、不況の日本しか知らない子供たち、あるいは成人世代を生んだ。その間、中国の市場経済導入など世界情勢の変化もあって、日本はデフレ圧力の中にあり、物価は待っていればいるほど下がるが、給料も伸びない、という意気消沈した状況下にある。

確かに、中国からの安い輸入品が増え、日本の国内産業の少なくない一部は淘汰されつつある。玩具にしろ食器にしろ衣料にしろ、またそれらを作る金型からネジ一本に至るまで、国内産業は今瀕死の状態にある。

少子化によって若年層が減り、高齢者が増えることで社会保障絡みの費用が増えているのも事実である。

しかし、それが日本の不況の原因の全てであろうか?

決してそうではない。私は断言する。日本人の保守的な考え方が今の不況の元凶にある。失敗を恐れるあまりの安全策、前例のないものへ手を出さないという保身的な経営、個人評価主義による不公平感からくる労働意欲の喪失、他書き出せば切りがない。

かいつまんで話をしよう。

◆アメリカも20年前は日本のために不況だった
日本がバブルに沸いていた頃、アメリカは不況のまっただ中にあった。しかし現在、アメリカ経済は金融不安にあるものの、世界をリードする商品を次々と開発している。

例えば、アップル社。iPhoneが発売されるより前から、NTTドコモでも似たような携帯電話の開発を行わなかったわけではない。

しかし、電話として使うにはPDAのような形状は使いづらいというマイナスな心理が働き、十分な広告を打つことができなかった。成功事例がない商品に、多額の開発費を投じ、広告を打つのはリスクが高すぎるからだ。事実、日本のメーカーに限らず、PDAタイプの携帯電話は営業的には失敗を重ねていた。

しかし、アップル社は過去の失敗を恐れず、「デザイン性」という一点で、見事「PDA」タイプの携帯電話を普及させてしまった。日本メーカーの携帯に比べて、Flashが再生できない、デジカメの品質も高くない、価格も安くないにもかかわらず、である。iphoneを持っていることが、ステイタスにでもなるかのような発売当初の広告に、人々は飛びついたのだ。

最近発売されたipadについても同じことが言える。電子書籍リーダーとしては、アメリカにはアマゾンのキンドルがあり(極々つい最近発表された情報によると紙の書籍の売り上げを電子書籍の売り上げが越えたらしい)、市場を押さえているのにもかかわらず、単なる電子書籍ではないという機能面の優位性と、デザイン性、そして絶対に成功することを前提とでもしているかのようなプロモーションによって、アメリカ国外での販売が1ヶ月遅れてしまうほど生産が販売においつけない事態になった。

日本でも、数年前にソニーが電子書籍リーダーを販売したことがあったが、国内の著作権問題も絡み成功はしなかった。具体的に言うと、お金を払ってダウンロードした電子書籍はある一定期間経つと読めなくなる、という好ましくない条件が付いていたのである。消費者が見向きもしないのは当然である。

ソニーはここで諦めてしまったが、なにも日本だけが市場ではなかったのだ。この時点では、少なくともipadはかけらにもなっておらず、著作権法の異なる国、アメリカで勝負することもできたのだ。それができなかったことに、ソニーの限界を感じてしまう。

そして、iphone、ipadの成功を見て、日本メーカーかは続々と「類似品」を出し始めた。そこに市場が生まれたからだ。自分たちが市場を作ったのではない。NTTドコモであれば「エクスペリア」という携帯を作り、電子書籍リーダーはソニーだけでなくシャープなども商品リリースすることを発表している。

ここに、日本企業の弱さがある。

誰かが市場を作るまで動けない。

失敗を恐れ、チャレンジをしない。そこから生み出される企業風土は、「意気消沈」のみ。活力など生まれるはずがない。技術者は作る能力を持ちながら、会社方針で作れないことに、あるいは経営者を説得するために膨大な時間と労力をかけなければならないことに、戦意を喪失している。

そして、自分たちが作りたいと提案・企画しているときには見向きもしなかった経営者たちが、他人の成功を見て豹変し「なぜうちの会社で作らなかったのだ? 今すぐ開発しろ!!」と言い始めることにうんざりしているのである。

マイクロソフトにしろ、アップルにしろ、それ以外の先進的な企業(たとえばインテル、AMD、google、アマゾン等)は、リスクを取ることで成功してきた。かつて日本が追いつけ追い越せと頑張っていた頃は、リスクを取った経営をしていたものの、ひとたび不況に入り込んだら、既にある企業資産(土地、建物などはもちろんのこと、ブランド等)を守るために、リスクを取ることを恐れるようになってしまったことが、日本企業がいつまでも元気になれない理由ではないだろうか?

チャレンジこそが、唯一、苦境を脱する術だと言うことを、どうかご理解いただきたい。

◆仕事は個人でできるものではない
アメリカ的経営と言うことで、不況に入ってから日本に浸透してきたもう一つの大きな潮流は「成果主義」である。確かに、「成果」=「報酬」という考え方は、サラリーマンとして実に心強いものだ。サボっている同僚を横目に、頑張っても頑張っても同じ評価しか受けなかったならば、やる気が失せるだろう。「やった分だけ評価されたい」と願うのは人間の根本的な欲求であり、それはすばらしい評価方法だ。

しかし、残念ながらスポーツ選手でもない限り、仕事は一人で完結することはできない。モノ作りを例に取るならば、どんなに営業が優秀であろうとも、生産があって初めて機能するし、経理や営業事務がいて初めて発送から代金回収まで行える。にも関わらず、営業だけが評価されたとしたらどうだろうか? 生産や開発を行っている人間は、「営業のため」に仕事を頑張ってきたわけではない。ここで軋轢が生じる。

更に、営業が売り上げを上げた理由は、そもそも営業の能力ではなく、マーケティング部の成果だという人もいるかもしれない。この場合、営業はただその戦略に乗って駒のように動いただけで、評価されるのは戦略を考えたマーケティングということになる。しかし、汗水垂らし、呑みたくないまずい酒を呑み、言われなきクレームに胃を痛める営業が評価されず、ただ「アイディアだけを出した」マーケティング部だけが評価されたとしたらどうだろうか? 営業もやる気をなくすのではないか?

逆に企画がうまくいかなかったことを考えてみよう。
営業が思った売り上げをあげられなかったとき、それは企画が悪かったとマーケティング部に言うかもしれない。マーケティングは企画は完璧だったが、生産が遅れ時期を逸してしまったと弁解するかも知れない。生産は、開発が遅れたから生産が間に合わなかったと責任を転嫁するしようとするかもしれない。すると開発は、企画がなかなか決定しなかったために開発のスタートが遅れたとマーケティング部を責めることになる。

端から見るとばかげたこのようなことが、現実の会社では日々起こっている。それは不況前の日本の企業からあったかもしれない。しかし、バブル前とバブル後で明らかに違う点は、チームとして企業が機能していないことである。個人の成果を評価すると言うことは逆を言えば失敗も評価すると言うこと。すると社員たちは自分にだけ失敗の原因が降りかからないように、次から次へと責任転嫁をしていく。

失敗するかも知れない企画(成功事例のないような企画)には、誰も責任を取りたくないから、「決定が遅れる」ということになる。チャレンジしない日本企業へ一直線だ。

仕事が個人でできるなら、会社など建てずに自分一人でやった方が報酬も大きいはずだ。それができないからこそ、人は企業という組織を作り、そこに所属するのである。成果主義が悪いとは言わないが、成果の評価方法が個人に向けば、「成功しそうな仕事」には人が群がり、「成功するか分からない仕事」には見向きもしないのは当然の心理である。

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