◆予算はつくよどこまでも
来年度予算が発表されるたびに我々主権者である国民はなぜ落胆しなければならないのか?
総理がITだの何だのと言っていたところでこの国の政治はそうそう変わらないものらしい。
予算の中身を見てみれば、その振り分けの比率は従来と全くといって良いほど変わらないのだ。
各省庁の予算枠(の比率)が高度成長を続けていた時代と現在と驚くほど似通っている。
これは非常に不思議な出来事である。憲法が制定後50年も手を加えられず残っているこの国は、
もしかしたらもっと大きなパラダイムに迷い込んでいるのかもしれない。
私は思う。この国を蝕む最大の功労者は「平等」であると。我々はこの言葉を常に正しいものとして
使ってきた。おそらく、概念としての「平等」は正しいものだろう。しかしその定義となると・・・。平等とはなんであろうか?
隣町に施設ができたから、自分の町にも必要だと願うことだろうか? 近県まで新幹線が通っているから、
赤字が確実視されていても自分の町までその路線を延ばしてもらうことだろうか?
実は平等を実現することは語るよりも遥かに難しい。何を平等とするか、明確なメジャーを我々は持たないからだ。
同じ時間同じ教科書で同じだけ努力して勉強した2人の生徒のテストの点数が100点と50点であったとしても、それを不平等とは
おそらく言わないだろう。同じだけマラソンの練習したのに一方で1位でゴールし、一方が完走できなかったとしても、
それを不平等とは呼ばないだろう。
しかし同じように国に陳情して、隣町に施設が建ったのに自分たちの所には施設が建たなかったとしたら、
それを人は不平等と呼ぶのだ。
隣町の施設を共同で使うことが合理的であると言われても、新幹線を通すより在来線のほうが結果的に採算が合う(つまり合理的である)
と説明しても、納得できない。
権力者のさじ加減を期待するのである。
地方交付税交付金のように、ある一定の算出方法によって確定する予算ならばこのようなことは起こらないだろう。しかし
「補助金」というさじ加減が存在する限り、「平等」という美徳と絡み合ったエゴがこの国からなくなることはおそらくないだろう。
そして我々は毎年、予算の内容を新聞でテレビで見聞きするたびに一喜一憂するのである。
「北陸や九州に我々の税金で赤字路線を作るのか・・・。高速道路が延長されることで、計画では無料になるはずだった高速料金は
値上がりするのか・・・」と。
◆提案〜予算規模に見合った可決議席を!
さて、嘆いてばかりもいられない。
ここで私から一つの提案をしたいと思う。それは予算規模に見合った可決議席の制定である。
つまりある一定額以上の予算を必要とする事業については、過半数ではなく3/5、ないしは2/3以上の賛成票が
必要であるとすることだ。これは複数年度に渡った場合も同様である。
これはある意味暴論かもしれない。しかし憲法改正(弟96条にて2/3以上の議席が必要とされている)に要する議席と
一般の法案(同1/2以上)を可決する議席が違うように、予算編成についてもその重要性によって異なる議席を
要求することは決して吝(やぶさ)かではない。
過年度の事業についても、毎年予算を上積みする際に規定された一定額を超える場合は審議・議決を必要とすれば、
数十年にも渡って延々と続いている、すでに必要性のない事業へ予算がつく事もないだろう。
もちろん、与党側の強行採決も難しくなる。
是非とも、皆さんの意見を伺いたい。