燐花殿の奥にその場所はある。

 後宮、そう名は付いているがその場に美しさを競う美貴は居らず、実質的には王と王妃そして四
人の殿下達の住まいと化している。
 そんな後宮でかなり早い靴音を奏でている人物がいた。


 この国の第四子である鈴龍(れいりゅう)である。
 小さな顔と愛らしい容姿、少しだけ癖のある黒髪を結い上げ厳しい表情で闊歩していた。

 鈴龍は苛立っていた。何故なら、この世で一番大好きな次兄に会えないからだ。理由は至極単
純で、今次兄は学校に通っているからだ。
 ソレが必要であることは本人から聞かされていたし、その場では不承不承ながらも納得した(正
確には優しく兄に諭されたのだが)。
 
 だが、納得できてもいざとなると寂しくてたまらない。
 どうにもならない歯がゆさと、胸にこみ上げる不快さがここ数週間鈴龍の機嫌を急降下させてい
た。




 と、言うわけで家出します。の旨をしたためた文は自室に残したし、服装も門の外に隠してある。
 準備は万端、さあ行動という所で声がした。

「鈴龍殿下。姫様、お待ちくださりませ」
 老熟した声が彼女の歩みを止めた。

 彼は古くからこの名ばかりの後宮に勤め、彼女の兄や姉も彼に勉学を教わってきた。
 それ故に、呼びかけに対し何も反応せず。そのままやり過ごす事が出来なかった。
「老師…私に何か?」
「これをお持ちください。ではお気を付けて」
 言うだけ言って去っていった老師をいぶかしみながら、今渡されたばかりの物を見る。





「旅券」
 どうやら老師はかなりの茶目っ気があったようだ。
 彼の知らなかった一面に少し頬を緩め、去って行った方へ軽く頭を下げると、走るような速さで彼
女は後宮を後にした。








 目の前にある事実から目を背けてはいけない。
 これは己に課した試練なのだから…。
 と、真面目に心中を語ってみたが、いかせん事実は奇なものである。





 世の女人方を尊敬してしまった。



 首から肩にかけては圧迫され、腰は苦しい。
 足元は締め付けられている。
 世の女性方はこんな苦労をしているのか、と落涙した。

「まだ、化粧という試練が残っているぞ」
「…忘れていたかったのに」

 艶やかな衣装を身に纏い、どこぞの姫のような出で立ちに変わった三人は今日始めて大勢の目
の前に出るのだ。

「着替え終わった?」
 軽く戸を開け、声だけで確認を取りに来たのは秋良である。
「坂本様?ごめんもう少し、化粧がまだ」
「そろそろ開催式が始まるから、急いでね」
「はーい」

 今日は年に一回行われる武芸会の日で、河野のお披露目もかねていた。
 生徒自身は姫に余り近づく事が出来ない日を狙ったらしい。

 武芸会は主に武官志望の者達が熱を上げる日である。
 武官の本分の一つである武芸のお披露目であり、修練した結果を見せる場でもある。
 剣・昆・槍の三種が行われ、各優勝者にはささやかな褒賞が姫の手から渡される事になる。
 ここで但し書きが着くのだが、参加できるのは武官だけではない、文官・医師も参加できるのだ。
文官・医師と侮る事なかれ、文官は知略を用いて弱点を突いてくる者も多く、元々家系に官吏が多
い所為か武芸を既にかじっているものも多い。そして何より恐ろしいのは医師である。彼等は人の
急所を武官より熟知している者が多く、力技で押す事はないが地味にじわじわと追い込まれていく
事もある。
 いずれにしても真剣勝負。かなりの拙戦だ。

「行こうか」
「「おう」」

 簡単な開催式の間中、姫達は衆人の目にさらされた。
 四方谷は鮮やかな山吹色の地に青から紫に色の変化のある蝶の柄。
 豊は青銅色の地に薄紅色から緋色に色の変化のある花の柄。
 河野は落ち着いた紅色に黄色から橙色に色の変化のある鳥の柄。
 どれも意匠は同じで広がった裾や袖には白い糸で縫い取りがしてある。

 人の好奇の目にさらされながらも、四方谷から盗んだ必殺技である笑顔で応戦する。
 このまま何事もなく、大会は終了するはずであった。

 とある二人の襲撃者があらわれるまでは…。




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