山岳ノンフィクション(山行記)
〜詳細データ・た行〜
 
 
 
作 品 名
「渓わたる風」 (高桑 信一、2004年)
紹 介 文
(帯、裏表紙等)
 瀑のざわめき、弾ける焚火、渓に眠る夜―。渓を師とし、奥利根に育まれて30年。<渓の語り部>が綴る、友が還り、己が還る渓。きらめく山毛欅の渓にて
感 想 等
( 評価 : C)
 渓に魅せられ、ひたすら日本中の沢を遡行しまくった沢屋・高桑信一氏の山行記録集。初登攀記録を狙うとか、未踏だからどうだとかそういうことではなく、ただ楽しいからとか、安らぎを得たいとか、気心の知れた仲間と過ごしたいとか、そういうことのために沢を遡行する。
 氏の文章からは、渓にいることの喜び、仲間とることの楽しさが伝わってくる。この本を読んでいると、沢のせせらぎ、飛沫、瀬音を生で感じたくなる。
名 言 等
ひとが山とかかわっていくためには、岩魚を釣り、山菜や茸を採り、焚き火をしなくてはならない。そうしないかぎり、ひとは決して自然を理解することはできないだろう。」
旅はいまだ知らぬ自身の内面との出会いであり、発見である。未知があり、不安定があり、時間と制約からかぎりなく自由であればなおのこといい。旅はどこか冒険の香りを宿すものなのだ。」
他人にどう思われようと、まずは楽しむこと、無理をしないこと、一発勝負を狙わないこと、そして夢を失わないこと。夢を捨てずに進みさえすれば、いつかは必ずかなう。」
馴染んだ渓には馴染んだ渓のよさがあり、初めての渓には新鮮な感動と喜びがある。どちらがいいかといえば、どちらもいいのである。馴染んだ渓の肌の風合いには、古女房に接するような安らぎがあるし、初めての沢にはときめきと怖れがある。」
貧しい用具と食糧を背負い、目を凝らして道筋を探る私に山がささやき、たどるラインを示したとしたら、おそらくそれが私の望む登山であり、サバイバルごっこなのである。」
山頂は結果として踏めればよく、むしろ自然のなかに自らを解き放ち、同化することを求めたのである。渓を遡るための特殊な技術が必要な遊びだとしても、私にとっては幼い日の川遊びの延長にほかならなかった。それは私たちが振り返りもせず壊しつづけた自然への、あくなき希求であった。」
 
 
作 品 名
「山小屋の主人を訪ねて」 (高桑 信一、2014年)
紹 介 文
(帯、裏表紙等)
山に魅せられて暮らす
あるがままをあるがままに受け入れる山小屋の生活。
小さな小屋では食材や燃料を背負い上げ、水は渓まで汲みに行く。
好きな山で過ごす日々のよろこび。
花々は日の移ろいにつれて、消えては咲いていく。
みずからの裁量と責任で小屋を営むひとたちに会いたかった。
あるじを訪ね、山々を旅した。
感 想 等
( 評価 : B)
 日本全国に山小屋がいくつあるか知らないが、その中26の山小屋を取り上げ、筆者が実際に小屋を訪れた際の話を交えながら、小屋の歴史や特徴、小屋主の思いなどを紹介している。小屋のデータなども付いているので、評論・ルポに分類しようかと思ったが、実際に小屋を訪れていることと、著者のこだわりの強さに鑑み、あえて随想・エッセイの括りに入れた。
 取り上げている山小屋を見ると、そこには高桑氏のポリシーというか、あるべき山小屋の姿が色濃く反映されている。それは本書の中でも、小屋主の口を借りて度々語られているが、素朴なランプの灯りであったり、小屋番が作る美味しい食事であったり、小屋番の温かい人柄だったりするのだろう。時代とともに、山小屋の在り方も変わり、登山者が小屋に求めるものも変わってきている。そうした中、本書は、古き良きものへの愛着とエール、消えゆく存在への哀惜とレクイエムが漂っている。
名 言 等
古来、山小屋は山に登るための前進基地だった。当然のことである。しかし、濃密な自然がそこにあり、居心地の良い小屋と愛すべき小屋番がいれば、それ自体が目的となっても不思議ではない。山はなにも、山頂に立つためだけに存在しているのではないからだ。泊まり客のために設備など粗末でいい。いや、むしろ粗末なほうがいい。雨露を凌ぐ小屋のストーブに寄り添い、心温まる食事があればそれだけいい。自然の申し子であるべきヒトが、本来の自然のなかでくつろぎ、自らを解放し、ふたたび下界に還るための回復の地。それが各地の温泉宿やリゾート施設ではなく山小屋であったとしたら、これほどうれしいことはない。」
突き詰めてしまえば、山小屋は登山者に一夜の宿と食事を提供するだけでいいはずなのに、その小屋を守るひととの出会いが、私たちを豊かな思いにいざなう。」
 
 
 

作 品 名
「なんで山登るねん」 (高田 直樹、1978年)
紹 介 文
(帯、裏表紙等)
 本書の一つの魅力は、題名のとおり京都弁につながるものであろう。ぎすぎすせず、柔かく、そして対象から距離をおいて、山行のきびしさ、愉しみを暖かく語っている。これは著者の人間性、豊富な体験によるものだ。
 山登りというものは、同じ山でも登山者一人々々によって異なってくるものだ。あまり山にのめりこみ意気込みすぎても、或いは山に甘えてきびしさを忘れてもいけないものだろう。本書はその中庸をのびやかな筆にとらえている。
 高田さんとは、以前、京都隊カラコルム遠征のとき、知合となった。そのとき彼は体調をこわしたこともあったが、常に冷静で判断を誤らなかった。神風登山の多い現在、多くの山の愛好者に、本書を読んでもらいたいと思う。(北杜夫氏・評)
感 想 等
( 評価 : C)
 京大山岳部OBで、剣岳東大谷G1積雪期初登、カラコルム・ディラン峰遠征等を行った氏の、痛快なエッセイ集。 正直高田氏のことはあまりよく知らなかったが、ディラン峰の話を読んで、やっと「ああ、北杜夫さんの『白きたおやかな峰』の話か」とピンと来た。
 大学時代からとことん山にのめり込み、社会人になってからも山から離れられない高田氏が、これまで経験してきた山での出来事をおもしろおかしく語ってくれる。何も考える必要はない。ただ読んで行けば、痛快無比な山の世界が広がり、楽しい気分になること請け合いである。
名 言 等
本当に、ぼくにとって、低山歩きの世界は、何をしてもゆるされる自由な世界でした。その世界では、自分はほんとうに自分自身であるような気がしたし、すべての傷がいやされるような気もしていました。」
『いい年をして、なぜ岩を登るんですか』などとたずねられたら、『うまいこと言えへんけど、何となくしびれるねん』そう答えることにしています。」
(なんで山に登るのかについては)結局のところ、答えは一人一人の中に、極めて個人的にあるし、そうした結果作られる登山の歴史も、いってみれば個人史でしかない。」
 
 
 
 
 
作 品 名
「谷川岳ヒゲの大将《魔の山に生きて》」 (高波吾策、1971年)
紹 介 文
(帯、裏表紙等)
◆著者紹介◆谷川岳の名物男・ヒゲの吾作さん
 ゛土樽のヒゲ"といえば、谷川岳を訪れた登山者、スキーヤーならだれでも「ああ」とうなづくほどの名物男。遭難事故が非常に多いため、魔の山、墓標の山と呼ばれる谷川岳の越後側山麓に三十年住み続け、遭難救助、新藤開発、登山・スキーの指導に大きな役割を果たした。
 小柄な体に神武ヒゲ、愛用のチロルハットをかぶり長靴をはいた吾作さんはいつもエネルギーに満ち、快活で、実行力があった。酒が大好きで、酔うと天衣無縫の歌や踊りが飛び出し、その人柄は皆から愛され、慕われたが、昭和四十六年三月、病のため急逝した。享年六十歳。
感 想 等
( 評価 : C)
 谷川岳の越後側、土樽の山の家に住み、土合の中島氏とともに、多くの登山者を助け、登山者から愛されてきた名物男・高波吾策氏こと"ヒゲさん"の自叙伝。山行記ではなく自叙伝だが、山に関する話が満載。山小屋建設など谷川岳に掛けたヒゲさんの想いが詰まっている。
 谷川岳に遭難関連の逸話には事欠かないようだが、あたかも山荘でオヤジさんと語らっているかのようなエピソードが興味深く、夜、お酒でも片手にノンビリと読んでみたい1冊である。
名 言 等
私が山小屋のオヤジとして、なんとかいままで暮せたのは、私自身の実力とか能力ではない。大きな運命の力の流れ、そしてその時代時代に周囲で私を励ましてくれた無数の人たちのおかげだと信じている。山という大自然の中で暮してみると、一人の人間の力なんて微弱なもので、家族をはじめ多くの知人友人の加護がなかったならば、一本の山道を作ることだって到底できなかったろう。」
山荘を主人として大切なことは、やはり土樽の土となる気持ちと谷川岳を愛する心情だと私は信じているのだ。」
 
 
 
 
作 品 名
「剱岳 線の記」 (高橋 大輔、2020年)
紹 介 文
(帯、裏表紙等)
剱岳に初登頂したのは誰か?
剱岳山頂で見つかった古代仏具の謎。いつ、誰が、どのルートから登り、何のために置いたのか。ついにその謎が解き明かされる!
感 想 等
( 評価 : C)
 本書は、「いつ」「誰が」「どのルート」で剱岳に最初に登ったのかを解き明かそうとするノンフィクション。普通に考えれば「評論」というジャンルに分類するのでしょうけれど、今回敢えて「山行記」としました。
 ジャンル分けもさることながら、本書をどう評するべきか、正直悩ましいです。面白く読んだので、それで十分なのかもしれませんが、主題である謎が解明されたかというと、謎は謎のままなのです。著者の考察や推察には一定の「らしさ」はあるものの、それは過去の研究者による報告書や研究者へのインタビューに基づくものであり、新たな古文書や遺跡・遺物等の発見があったわけではない。どうしても、「〜だろう」「〜ではないか」「〜に違いない」という表現を使わざるを得ないのです。筆者は、考古学者でなければ研究者でもなく探検家なのだから、そうなるのはある意味当然。自分が同じ謎に挑んだとしても、そう表現するしかないですし、同じ手法でアプローチすることになると思います。それでもモヤモヤしてしまうのは、最初から分かっていたものの、明確な結論が出ていないから。それにも拘わらず最後の方で、自らの推論をあたかも事実かのように記述している点には違和感を覚えます。
 筆者の文章は非常に上手い。ただ、叙事的というよりも叙情的であるがゆえに、本書の目的には合わない気がします。むしろ、探検家が謎を追い求めて山々を歩き回り、研究者や縁の人を訪ね歩く紀行文と考えれば、すんなりと読めます。ひとつ言えるのは、筆者の探検・考察は非常に興味深いです。
名 言 等
探検家であるわたしは、世間から登山経験が多いと思われがちだが、登山家のように『そこに山があるから』という理由で登ることはない。探検家は登山のための登山、冒険のための冒険はしない。探して検証すべき対象に向かうのが探検だ。」
剱岳に惹かれるのはその厳しい山との一体感ゆえなのだ。」
古来、日本人は山の恵みに感謝し、自らの生命の源として崇め、神として礼拝してきた。剱岳が神とみなされたのには同様の背景があるだろう。」

 
 
作 品 名
標高8000メートルを生き抜く 登山の哲学」 (竹内 洋岳、2013年)
紹 介 文
(帯、裏表紙等)
日本人初の14サミッター≠ェ明かす、難局を乗り越えるための哲学
なぜ死の恐怖に立ち向かえるのか?

酸素・気圧は平地の1/3、気温は平均-35℃・・・・・
極限に挑む登山家の「武器」は、その頭脳にあった!
感 想 等
( 評価 : B)
 日本人で初めてヒマラヤ8000m峰14座のサミッターとなった竹内洋岳さんの、14サミッターまでの道のり、登山に関する考え方などが語られている。講演を聞いたこともあるが、わかりやすい言葉で軽妙に語る竹内節は文字になっても読みやすく、あっという間に読めてしまう。本書の目的だという「高所登山の魅力」をどこまで伝えられたのか、その受け止め方は人それぞれであろうが、同じく登山を楽しむ人間としては頷けるフレーズが多かったように思う。
 個人的には、ある意味で世界の中では「今さら」とも言える14サミッターを、日本登山史の中でどう位置付けるのか、その答えが非常に納得のいくものだった。すなわち、「私が14サミッターになったことで、日本の登山にとってプラスの財産が築かれたわけではなく、負債がチャラになったに過ぎない。そして、私にやれたことは、新しいステージへの扉を開くことではなく、古いステージに逆戻りしないように扉を閉めることでした。」というもの。なるほど・・・と首肯。
名 言 等
登山は想像のスポーツです。頂上まで行って、自分の足で下りてくる。ただそのために、登山家はひたすら想像をめぐらせます。無事に登頂する想像も大事ですが、うまく行かないことの想像も同じように大事です。死んでしまうという想像ができなければ、それを回避する手段も想像できません。私たち登山家は、どれだけ多くを想像できるかを競っているのです。」
人も、山も、個性を感じとるのは相手です。山の魅力は山の数だけあると昔から言われてますが、登る人の数だけあると私は思っています。」
精神的に一番きつかったのは、お見舞いに来てくれた人たちの「運が良かった」という言葉でした。自分は運が良くて助かったのか?仮にそうならば、二人の仲間は運が悪くて命を落としたことになる。そんな理屈は絶対に受け入れられない。」
誰でも簡単に登れる坂道なら、登ってみたいという欲求は湧いてこない。登れそうもない斜面だったり、まだ誰も登ったことがない場所だったりするから、「その先へ行ってみたい」という好奇心が刺激され、挑戦する意欲が呼び起こされる。それが山登りの"原点"だという気がします。」
同じ登山というのは、二つとない。一度登れた山だからといって、二度目も確実に登れるという話には絶対になりません。条件も違ってくるし、自分自身のコンディションによっても違ってくるし、パートナーによっても違ってくる。登山というのは、毎回が初回なのです。」

 
 
 
作 品 名
「モンベル 7つの決断」 (辰野 勇、2014年)
紹 介 文
(帯、裏表紙等)
「登山家は怖がりだ」
だからこそ、晴天でも雨具を落ち歩き、日帰りの登山にもヘッドランプを必ずザックに忍ばせている。
命がけの「リスクマネージメント」は、まさに会社経営に通じる。未来を想像し、憂えるがゆえに下した私の「7つの決断」
その一つ一つを本書で紹介します。
感 想 等
( 評価 : C)
 アイガー北壁日本人第二登を果たした一流クライマーであり、その後、アウトドア用品メーカーモンベルを設立した辰野氏による、モンベル設立40年弱の歴史。
 当初、ヤマケイ新書から出ている本だし、辰野氏の半生記のようなものかと思ったが、読んでみたらほぼビジネス書だった。山関連の話は、モンベルのビジネスに繋がった部分の記載のみに留められている。
 ビジネスに関しては、本人が先駆的と評したカタログや会員制、ポイント性などは、当時どこまで先駆的だったのか良く分からなかったが、辰野氏の経営哲学、その時々の決断とその背景にある考え方などは、大変面白かった。ちょっと自己PR的なトーンが出過ぎている感があり、ビジネス書というよりも社史に近いかもしれない。
名 言 等
登山家は、用心深く、怖がりでなければならない。」
私にとって「決断」の定義とは、「将来を見据えて、あえて困難な道を選ぶこと。」
人生を登山にたとえる人がいる。たしかに重い荷物を背負って頂上をめざす登山行為は、さまざまなしがらみを背負って、目標に向かって格闘する人生に似ているかもしれない。共通して言えるのは、自らの意思で歩いてこそ、その道のりを楽しむことができるが、もし誰かの命令で歩かされるとしたら苦痛以外の何物でもないということだ。」


 
 
作 品 名
「花の百名山」 (田中 澄江、1980年)
紹 介 文
(帯、裏表紙等)
 夏の鳥海山だったらチョウカイフスマの純白の花。赤紫のレブンソウの花には北の礼文岳に登らないと逢えない―山と花をこよなく愛して日本中の山々を踏破した著者が、その豊富な山行の中から、四季折々の山と花の結びつきを百選び、歴史や伝説を織りこみながら綴った読売文学賞受賞の珠玉のエッセイ。
感 想 等
( 評価 : D)
 戯曲、小説、エッセイなどを書く文学者・田中澄江女史による花を巡る山行記。氏の登山自体は夏山かつ低山中心だが、"花"という存在に軸を据え、その山にまつわる文学や歴史を絡めたエッセイ風の山行記は、山以外で読ませる一つのスタイルと言えそうだ。
 ただ当然のことながら、著者の経験による百名山の選定なので、その山に行けばその花が見られるというわけではないし、その花を見るためにはその山が一番というわけでもない。
 余談ながら、「・・・であろう」とか「・・・かもしれない」といった推測に基づく表記が多用されており、どれが事実でどれが想像なのかが判然としない部分が多いのがやや気になる。
名 言 等
いつ、どこの山へいっても、また来たいと思い、一つの山に登って帰ってくると、すぐ次の山を考えている。」
いつまで健康が保たれ、いつまで登れるかわからないけれど、一歩でも半歩でも、足が前に進むことのできるうちは、十センチでも五センチでも足が上にあがる間は、山に登りたいと思う。」



作 品 名
「アドベンチャーレースに生きる!」
 
 (田中 正人・田中 陽希、2017年)
紹 介 文
(帯、裏表紙等)
「百名山への挑戦はEAST WINDのためだった」
日本百名山ひと筆書き 田中陽希が人生を捧げる世界とは?
第一人者とその継承者がつなぐ最強チームの魂
感 想 等
( 評価 : C)
 チーム・イーストウィンドを立ち上げた、わが国アドベンチャーレース界の草分け的存在である田中正人。日本中百名山ひと筆書きで一躍有名になった、イーストウィンドの次期エース田中陽希。2人が語るこれまでの人生と、アドベンチャーレースに賭ける思い、そしてイーストウィンドに関わった白石康次郎ら初期メンバーのコメントを通じて、アドベンチャーレースの真髄を明らかにしていく。
 本書を読むまでは、アドベンチャーレースというのは冒険に競争的な要素を取り入れた、とにかく過酷なスポーツというイメージしかなかった。具体的な内容は大会ごとに異なるため、本書を読んでも、やはり何をしているかイメージしにくい部分は残るものの、肉体以上に精神的な強さ、特に人間関係における強さが必要だということがよくわかった。2人が口を揃えたように同じことを言っており、この競技の奥深さが十分理解できる。
 とはいえ、本書を読んでアドベンチャーレースの志願者が増えるかというと、なかなか難しいだろう。もちろんそれは、本書の内容が今一だとか、2人のせいではない。それだけ過酷な競技であり、競技の置かれた環境も厳しいということだ。
 ラスト近くに掲載された田中正人の奥さまのコメントが何より素晴らしい。なぜ、田中正人に惚れたのかはよく分からなかったが、正人氏と奥さまの気持ちがちゃんと一つになっており、何も言わなくても通じていることが伝わってくる。お互いに良き伴侶を得たということだろう。
名 言 等
最終的に変化するのは自分の力だけれども、そこに行き着くまでには、自分のことを真剣に見守ってくれる仲間や友人が必要なのだ。いろいろな人から受けるさまざまな評価も、すべて自分の弱さと強さを知る糧になるのだと気づくことができた。」
(田中陽希)
僕が20年もの間、アドベンチャーレースを続けてきた理由。それは、自分に何が足りていないかをアドベンチャーレースが教えてくれるからにほかならない。」(田中正人)
選手は自然から痛い目に遭い、仲間と本音でぶつかり合い、真の自分をさらけ出すことになる。そこまで行って初めてアドベンチャーレースの神髄に触れることができる。」(田中正人)
本当に強い人間しか自分を変えることはできない。」
(田中正人)
自然と共存し、自然の力を借りなくては生き抜いていけないことを、身をもって体験できるのがアドベンチャーレースなのだ。」(田中陽希)

 


 
作 品 名
「彼方の山へ」 (谷甲州、2000年)
紹 介 文
(帯、裏表紙等)
 とにかく歩くことが好きだった。地図を眺めているうちに、そこに記された風景の中を歩いてみたくなるのだ―
学生時代、里歩きから始めた著者は、素人同然の技量で冬山に挑戦。厳冬期南アルプス全山単独縦走を果たす。やがて青年海外協力隊としてネパールに渡ったことをきっかけに、ヒマラヤ・クン峰に登頂・・・・・。新田次郎賞受賞作家が、独特の透徹した視点で丹念に綴る青春登山記。
感 想 等
( 評価 : C)
 小説家・谷甲州が、学生時代の山から青年海外協力隊員としてのネパール時代、カンチェンジュンガ学術隊、インド・クン峰遠征等を振り返る。山岳冒険小説家としてよりもむしろSF作家として有名な谷氏であるが、あくまで山岳冒険小説家・谷甲州がいかにして誕生したかがわかるうれしい1冊。
 縁の持つ不思議さ、運というものを感じないわけにはいかないが、縁・運というものは間違いなく谷氏自身が切り拓いてきたものと言えよう。谷氏はあとがきで謙遜しておられるが、間違いなく、自分を信じ、自分らしく生き、そして結果を残してきた一人の男の記録である。男子たる者、かくありたいものだ。
名 言 等
(インド・クン峰に登頂)髭面の伊藤氏を抱き合って、何度も背中をたたき合う。嬉しかった。登頂したことの喜びよりも、これで安全な場所に降ることができるという安心感の方がつよかった。」
(なぜ山に登るのか、について)少なくとも登山家が、おなじ山仲間にそんな質問をすることはない。だれもがその理由を知っているからだ。つまり「登りたいから」なのだが、当時者同士が確認し合うことではない。惚れたはれたに理由は必要ないのだ。」

 
 
作 品 名
「ごちそう山」 (谷村志穂・飛田和緒、2003年)
紹 介 文
(帯、裏表紙等)
 山に登ろう!どうしたことか突如、至高への挑戦に目覚めた志穂さんと、どこでも料理の和緒先生。あのゴールデンコンビが今度は登山に挑む!志賀、丹沢、八ヶ岳、はては冬の利尻富士、汗と涙と笑いにまみれたお山紀行、全12山。和緒先生の簡単おいしいアウトドアクッキン、イラストレシピ入り。マップもついて、ガイドとしても役立つ情報が満載のオリジナルカラー文庫。
感 想 等
( 評価 : C)
 作家の谷村志穂さんが、料理と絵担当の飛田和緒さんとのコンビで綴る山行記。タイトルは”ごちそうさん”と読むが、タイトル通り山で楽しめる手軽なごはんレシピが載っている。
 もっとも食事にそんなにこだわりのない自分にとってその辺は二の次で、一番のポイントは、やはり志穂さんの軽妙な文章で綴られた山でのアクシデント、和緒さんとのやりとりなど、エッセイとしての面白さだろう。2人とも登山初心者ということになっているが、いきなり志賀高原の雪山スキーに始まり、ハワイ登山、雪洞、テレマークスキー、沢登り、冬の利尻富士と、とても初心者とは言い難い登山に挑んでいる。もちろん、ウッチー隊長やオオタケ青年といったガイド役が付いているが、かなり大胆だ。谷村さんは「学生時代にも少し山に登っていた」との記載があるので、それなりに経験者なのかもしれない。ただ、こうしたガイド山行的な登山ものを読むと、自分(たち)だけで行けばもっと面白いのに・・・と思ってしまう。
 本書は、季刊「ヤマケイJOY」の97年春号〜00年夏増刊号に連載されたもの。ちなみに、志穂さんには「ヒトリシズカ」という、山が少しだけ関連する短編小説がある。その中にトムラウシ山が出てくる。なぜその山なのかと思ったら、トムラウシで沢登りをしたことがあるそうだ。そりゃ、初心者とは言い難いですね。
名 言 等
のろまな歩みではあっても、いつかは着く。そこが山のいいところだ。みんな、そのことをよく知っている。。」
また登ろう。だって山はこんなに楽しいんだもん。」
真剣に遊ぶ、ことが大人になると難しい。私が登山を始めた理由はいろいろあるが、どうせなら、一緒になって、真剣に遊べる相手と登りたいなと願った。」

 
 
 

作 品 名
「新編・山と渓谷」 (田部 重治、1929年)
紹 介 文
(帯、裏表紙等)
 ワーズワース、ペイター研究で知られる著者は北アルオウスの麓の村の産。毎朝、家の前の流れで顔を洗い、白雪を戴く立山、剣の山々を仰いで育った。戦前戦後を通じて数多くの読者を山に誘った、英文学・登山家田部重次の山の随筆・紀行文集。
感 想 等
( 評価 : C)
 明治末期から大正にかけて、北アルプス及び秩父の山々・沢を巡り歩いた田部重治氏の山行記。この時代、北アルプスはともかく秩父の沢などは、人跡未踏か地元の猟師くらいしか道を知らない状態であったようだ。そうした時代に、滅多に人が入らない場所を切り拓いてきた功績は大きいものがあるだろう。しかも装備の古いこと。飯盒、草鞋、缶詰、味噌・・・それに案内人や人夫を連れ、燃料は焚火。現代とのギャップも面白い。
 そうした登山史上の位置付けや食糧・装備の違いなどいろいろあるかもしれないが、山に入るときの人の気持ち、思いは今も変わらない気がして、なんかうれしかった。貴重な自然はだいぶ失われてしまったかもしれないけれど、自然に対して素直に接する田部の姿勢は、人間にとっての自然の大切さを再認識させてくれる。
名 言 等
私は、自分を最も力強くよみがえらせ、私に新しい力を与えるものは毎も自然であることを感じている。」
山に登るということは、絶対山に寝ることでなければならない。山から出たばかりの水を飲むことでなければならない。なるべく山の物を喰わなければならない。山の嵐を聞きながら、その間に焚火をしながら、そこに一夜を経る事でなければならない。そして山その物と自分というものの存在が根底においてしっくり融け合わなければならないと。」
アルプスの姿が永遠の憧憬を象徴し、海は大いなる人生を包むとするならば、潤いに富む鬱蒼たる秩父の山容は、渾沌たる神話時代と、無限に向上し発展せんとする生命のとどろきの内部的充実を象徴している。そこには神秘があり、温かい人生がある。」
渓谷の溯行は日本人に取って最も愉快なものである。日本人ならずとも、流れる水、しかも清純なる水に対する嗜好は、誰しももっている。しかし日本人は最も清純なる水を好む民族であり、また、最も清純なる水は、日本の渓谷において見出される。」

 
 
 
作 品 名
「エベレスト・ママさん」 (田部井 淳子、1978年)
紹 介 文
(帯、裏表紙等)
 友達や兄、先生と故郷の山に登った少女時代。日本中の山を歩いた学生時代。そしていつか一生の伴侶を得、母となっても、家庭を守り、子供を育て、そんな普通の生活をしながらまた山へ行く。でも山に生涯をささげるなんて気は毛頭ない。山が好きだから登るんだ―。アンナプルナV峰、そしてついに地上の最高峰エベレストの頂きに立った、一人の平凡な主婦の綴る非凡な半生記。
感 想 等
( 評価 : B)
 女性だけのエベレスト登山隊の副隊長兼登攀隊長として登頂した田部井淳子氏。彼女の少女時代の登山から、アンナプルナV峰、エベレストまでの半生記。
 田部井さんを見ていると、あの小さくて細い体でよくあそこまでできるなと感心してしまう。彼女を支える大きな要因の1つが意志の力なのだろう。本書の所々に、意志を強調する言葉がでてくる。何事も意志の力なくてはできない、と。「なせばなる」ということなのだろう。
 そして、さりげなく書かれているが、家事や琴など山以外についても全力を尽くし、それを支えた旦那さんや家族の力も見逃せない。好きなことをし、そのために全力を尽くす、そういう素晴らしい生き方の1つの見本がここにはあるような気がする。
名 言 等
登りたい。どこでもいい。ヒマラヤの頂なら。それが登ろうになった。アンナプルナV峰にだ。たった今、それが登った、に変わった。」
技術も、体力も努力なしにはできないが、その努力すら強烈な意志なしでは出来るものではない。」
意志はお金で買うことも出来ないし、人から作ってもらえるものでもない。本当に自分の心の中からなにか燃え上がるような、そんなファイトが沸いて意志となるのだ。それだけに意志は貴い。意志こそ力だ、と私は思った。」

 
 
 
作 品 名
「山の声」 (辻 まこと、1971年)
紹 介 文
(帯、裏表紙等)
 オトカム―著者は自分にこう名づけた。MAKOTOを逆に読む。「ゴーマンなのだ。オトカムよ、オマエは怠けものなのだ」
 囲炉裏を囲み、ドブロクの茶碗を手にする男たちの話に耳を傾け、ムササビ射ちとけものみちを歩き、村人たちと温泉につかり、時の流れの中で変化する山の景色や生活を思う。力強いタッチで描かれた絵や文章に生き物に対する慈しみと好奇心にあふれた一冊。
感 想 等
( 評価 : D)
 画家であり、随筆家でもあり、「稀有の自由人」と呼ばれた辻まことの画文集。どこか遠い世界の昔話のような、幻想的で幽玄な感じのする1冊。
 好みの問題と言ってしまえばそれまでであるが、味わい深いとは思うものの好みではない。
 「多摩川探検隊」これはお気に入り。山好きの人間ならば、誰もがこんな経験をして、山や自然への想いを馳せ、惹かれて行ったのではなかろうかと思う。
名 言 等
先を行くKの白い息がKのヘッドランプの光の中で、なんとなく温かい感じに見えました。それは私の知っている「人間」の生命だ。そんな証のようにおもわれたのです。」
自分の内なる鼓動が、私の足を運ばせて山の方に向かわしめるとき、自覚した目標のはるか遠い距離から呼ぶ声に本当はさそわれているかも知れない自分を、私はいぶかしく眺めるときがある。」

 
 
 
作 品 名
「邂逅の山」 (手塚 宗求、1980年)
紹 介 文
(帯、裏表紙等)
信州霧ヶ峰、車山の肩に立つ著者の山小屋コロボックルヒュッテに、ためらいながらやって来る春、ニッコウキスゲが草原をうずめる色とりどりの花の季節、流れる白い霧、やがて訪れる金色の秋、そしてきびしい寒気と雪の冬。そんな一冬、一夏が過ぎていった青春まっしぐらの年月を、抒情ゆたかに描いて感動を呼ぶ待望の新編。
感 想 等
( 評価 : B )
 車山の肩に、今も建つヒュッテ・コロボックル。その山小屋を、ビーナスラインがまだ通っていなかった戦後間もない時代に切り拓いた手塚氏の、小屋番としての日々を記した随想録ともいうべき1冊。
 手塚氏も若い頃はかなり山をやったようであるが、本書の中ではほとんど出てこない。あくまで、小屋番としての自然や山への愛着、出会った人や動物・道具などの想い出、そして何よりも山小屋そのものの存在に対するこだわりなどについて、滔々と綴られている。手塚氏の文章は、静かに奏でられる音楽のような赴きがある。じっくりと味わいたいものである。
名 言 等
私が山に入るようになった動機は単純であったと思う。未知な世界に冒険を求めて入ったともいえるし、野性的な生活をしたくて山に登ったともいえよう。」
独立独歩の精神こそ、私が山から得たいくつかの教訓の中でもっとも感謝すべきものの一つであった。孤独に耐える、飢えと寒気から身を守る、ありあわせのものを最大限に活用する、あらゆる耐乏の中で自分の体の反射神経の限界をひき上げる、人との信義を重んずる等、私の山は生きてゆく上に必要な力を授けてくれたのだった。」
山小屋とは、外界から人を守り内部と外部を遮断するものであるだけで充分にその機能と存在を価値あらしめている。一枚の屋根と板壁と暖炉があればいい。その場所がさらに僻遠の地であればあるほど、山小屋の窓はむしろ外を眺めるためのものでなく、小さな光を入れるためのものでもいいのだ。」
山小屋での仕事は、時には辛いと思う日もあった。空腹を抱えながらの重労働もあったが、私は貧しい身なりや肩がきしむような仕事やひびわれた両の手の痛みに耐える毎日、これこそが山に住む者にふさわしいとさえ思っていた。あんなに純粋に生きた日々はなかった!私は一日一日を自然のままにそこでの光や風のように生きていた。読む本もなく、字も書かず、特定な人の生き方の模倣もなく、何のてらいもなく単純に、素直に!」
毎日毎日、場所も時もえらばず、人間の住む所には絶えず無数に、突然のめぐり合いが生まれ、唐突な別れがひそんでいる。邂逅と別離、よろこびと哀しみ、生と死はいつも手をとり合っている。人と人との偶然や奇遇にも、風にそよぐ樹々の葉のふれ合う音にも、いかなる現象にも深い意味がこめられているように思えてならない。」

 
 
 
作 品 名
「谷川岳 大バカ野郎の50年」 (寺田 甲子男、1990年)
感 想 等
( 評価 : C )
 東京緑山岳会の会長を長きにわたって務め、谷川岳での山岳遭難救助に数多く携わったことでも有名な寺田甲子男が、50年にも及ぶ登山人生を振り返る本。半生記というよりもエッセイ集に近いイメージで、時系列に並んでいないため流れはわかりにくいが、個々のエピソードは戦前・戦後の登山史の一面として非常に面白い。
 内容の面白さに加え、文章にも勢いがあり、あっという間に読めてしまう。ただ気になる点もある。時代が異なるので単純な是非の問題ではないのだろうが、本文中に時々出てくる、自分勝手で傍若無人な振る舞いは、読んでいてあまり気持ちの良いものではない。また、断りを入れて使っているとはいえ、緑山岳会の内輪の用語を連発しているのはどうかと思う。
名 言 等
兄貴たちが周りにいて、結果的に私は、山が好きになったというか、自然というものが好きになった。谷川岳が比較的近くて便利なところにあったということ。逆に、人間が作った遊びには、なまじルールがあって、それは面白くないと思ったということだ。」
私は確かに谷川岳が好きなのだが"なぜ好きなのだ"と理屈をこねられても、正直、自分でもわからない。理屈を言う前に、もう一ノ倉沢を登っていたというのが今までの正直な感想だ。」
山登りは、生きて帰ってくるからこそ立派なクライマーなのであって、山での死を美しいと思う者はシロウトとマスコミだけ。山で死ぬ者は、誰であっても大したことはないと思う。」

 
 
 
作 品 名
「海上アルプス 屋久島連峰」 (遠崎 史朗、1967年)
紹 介 文
(帯、裏表紙等)
 1968年度、国体・山岳部門実施地と決定した九州の最高峰宮之浦岳をはじめ。奇怪になみよろう屋久島連峰!はじめて出る“秘境・屋久島”の本。山に無縁の人にも山のダイゴ味を堪能させる本である。
感 想 等
( 評価 : C )
 本書はガイドブックという体裁を取っており、実際そうした内容になっていが、所々で著者である遠崎氏の個人的な思いや意見が顔を出す。その意味では、山行記的な要素もあり、ここでは敢えて山行記と位置付けた。
 元大学山岳部員で、屋久島の中学校教師として屋久島中を歩きまわった遠崎氏。屋久島を隅々まで知り尽くし、屋久島を愛する氏によるガイドブック兼山行記。屋久島が世界文化遺産に選ばれる25年前、まだまだ屋久島を訪れる観光客も少なかった時代に書かれた本で、そこに描かれている屋久島は今とはだいぶ様相が異なっているように思われる。逆に言えば、屋久島の文化史的な記録としても価値ある1冊かもしれない。
 なお個人的な興味・関心から言えば、自分がこの本を読んだのは、屋久島について知りたかったからではない。遠崎史朗について知りたかったのだ。遠崎氏は、その後屋久島を離れ、少年ジャンプの編集を経てマンガ原作者へと転進している。その辺の話は拙著『山岳マンガ・小説・映画の系譜』をお読み頂きたいが、その遠崎氏が登山者として書いたものが本書である。
名 言 等
なんの変てつもない尾根でも、ここは島なのだと思うと、なんとなく魅力がわいてくるものだ。」
コンペキの空、エメラルドの海、濃紺の峰峰。着いた、とうとう着いた。海抜0メートルの安房海岸から、一九三五メートルの宮之浦岳まで、完全にじぶんの足で登ったのだ。今までのかずかずの苦労も忘れて、いい知れぬ感激に胸があつくなるのを覚える。」
屋久の山にはいり、雨にあってこそ、はじめて屋久島まで来たんだという思いを深くすることであろう。屋久島に来て、山に三、四日はいり、快晴だった、すばらしい登山だったという人がいれば、残念ながら、その人は、屋久島のほんとうのすがたを見ずに帰った、お気の毒な人なのだ。」
 
 
 
作 品 名
「ピッケルを持ったお巡りさん」
 〜登頂なきアルピニストたちの二十年〜
 (富山県警察山岳警備隊 編、1985年)
紹 介 文
(帯、裏表紙等)
ここに収録された文章は、山岳警備隊員の苦闘の記録であり、また、遭難者の山仲間による痛恨の文であり、さらに山を愛する者を山で亡くした遺族の慟哭の手記である。いずれも山に憑かれた人間の生きざま、死にざまの偽らざる記録であり、それだけに限りなく読む人の胸をうつ。
内容・感想等
 山岳警備隊の活躍、苦闘を描くシリーズの第1弾、富山県版である。
 冬は豪雪に見舞われる天下の難峰・剱岳は遭難の名所?でもある。そんな魔の山で、自らの命の危険をも顧みず、遭難者のために死力を尽くす山岳警備隊。その活躍、献身には、ただもう頭が下がるだけである。
 文章そのものはややこなれていない部分があるものの、思いは十二分に伝わってくる。特に最後の遭難者の自身あるいは、その遺族からのメッセージは強く響いてくる。
 
 
 
作 品 名
「富山県警山岳レスキュー最前線」
 (富山県警察山岳警備隊 編、2016年)
紹 介 文
(帯、裏表紙等)
劔岳周辺を中心にして
遭難救助に全力を傾ける
「最強のレスキューチーム」の心意気
内容・感想等
 剱・立山を中心に後立山連峰までカバーする富山県警山岳警備隊。その隊員たちが語る山岳救助にまつわる33のエピソードには、彼らの熱い想いと優しさが詰まっている。特に、「痛恨の殉職事故」の章は、涙無くしては読めない。私たち登山者の安全と安心は、そんな彼らの献身的な活躍によって守られている。警備隊・救助隊や山小屋等関係者の方々への感謝の気持ちと、登山者としての自戒の念を新たにした。
 山岳警備隊・救助隊ものに外れはないが、本作も感動間違いなし。ちなみに取材・構成は、遭難関連のドキュメントもので定評のあるライターの羽根田治氏だ。
名 言 等
『ありがとうございました』と言われれば、やっぱり嬉しい。自分の努力が言葉になって返ってくる仕事というのは、なかなかないだろう。
技術や体力は自分の努力でいくらでも身に付けることができるが、いざというときに力を発揮するよりどころとなるものは、登山者に寄り添い遭難者を想いやる気持ちにほかならない。」
どんなことがあろうと、山で死ぬことは誤りであるはずだ。」