山岳ノンフィクション(山行記)
〜詳細データ・あ行〜

 
 
 
作  品  名
「雲取に生きる」 (新井 信太郎、1988年)
感  想  等
( 評価 : C)
 昭和30年、初代富田治三郎氏の時代に山小屋に入ってから、この本が出版されるまで33年。その後も新井氏は小屋主を務めており、現在(2014年)まで59年間も小屋を守り続けている。気の遠くなるような長さだ。それだけ続けられたのは、著者の忍耐強さと、雲取を愛する心、そして今なお、「山と山小屋」(小林百合子)で取り上げられるような温かいキャラクターゆえであろう。
 本書は、30年間、飽くことなく雲取の自然と登山者たちを見つめてきた著者ならではのエピソード、自然観、人間観察、半生が綴られている。山小屋での暮らしというものがよくわかり面白い。
名 言 等
たとえ山小屋の仕事が苦しくとも、山の持つはかりしれない不思議な魅力と、山小屋をおとずれる登山者にふれあうことで満足しているのである。」
原生林の本当のよさとは、その中をはだしでさまよい歩くことによって感じられる柔らかさ、みずみずしさであろう。」
秩父の山の持つ魅力、それは何といっても森林美であり、渓谷美である。原生林もお花畑も、谷の中のみずみずしい苔も、四季折々に姿を変えて、ここを訪れる登山者にやすらぎの時間と場所を提供してくれる。」
 
 
 
 
作  品  名
「山は登ってみなけりゃ分からない」(石丸 謙二郎、2020年)
紹 介 文
(帯、裏表紙等)
 NHKラジオ「山カフェ」でおなじみの石丸謙二郎が語る
 山のなかで見つけたこと、
 知ったこと
 驚いたこと!!
感  想  等
( 評価 : C)
 俳優にして、ソフトな語り口のナレーター、そして山好きとしても有名な石丸謙二郎さんによるエッセイ集。NHKラジオで毎週「山カフェ」という番組をやっているだけあって、かなり山をやっているようで、登場する山も多彩。山の知識も豊富。洒脱でウィットの効いた文章も読みやすく、しかもエッセイ1つあたり4〜5ページ程度と手頃なので、あっという間に読めてしまう。所々に差し込まれている墨絵の挿絵も本人によるものだそうで、実に多才な方のようだ。
 タイトルは、浅間山に関して、見た目はおまんじゅう形のズングリとした山だけれども、実際に登ってみると見えていたのは外輪山で、見た目も天候も美しさも登ってみないと分からない。そんな話から付けられたもの。本書の内容もタイトル通りに、山に登ったからこそ分かる・経験できる・知ることができる数々のエピソードが満載。コラムの落とし物シリーズ以外は、ほぼノーテーマだけれどおもしろい。ちょっとしたコーヒーのお伴や、空き時間の心の潤い代わりに、気軽に読んでみてはいかがだろう。。
名 言 等
たしかに、多くの命をのみこんできた山である。しかし、それゆえの魅力がこの岩峰にはあり、そのために、技術体力を鍛えて挑戦する夢を捨てきれない。」

 
 
 

作  品  名
「山と雪の日記」 (板倉 勝宣、1930年)
紹 介 文
(帯、裏表紙等)
日本のアルピニズム揺籃・発展期に活躍し、風雪の北アルプスで遭難死したひとりの若き山男。自然を愛し山に志し、ついにはその山に自らの短き生を埋めるにいたった、優しくも、またひたむきな青春の軌跡。
感  想  等
( 評価 : B)
 本作の執筆時期は1914〜23年(大正3〜12年)。その後、遺稿集としてまとめられ、昭和5年に「山と雪の日記」として梓書房から出版された。
 1世紀以上前に書かれたものなのに、なぜこんなに新鮮で瑞々しいのだろう。文章を読んでいて、古臭いという意味で時代を感じさせるものがなく、かつ非常に読みやすい。前半はまだ若い頃の文章だからなのか、明るく飄々としていてちょっとやんちゃな感じがするが、後半は思索的・哲学的な香りがする。
 大正という時代に、これだけ岩や雪に親しみ、登山や冒険について一過言持っていたということは、恐らく最も先鋭的な登山家の1人だったのだろう。雪崩対策としての、積雪期の地図という発想は、今の時代としても面白い。改めて、早逝されたのが惜しまれる。
 ちなみに、昭和5年版の巻頭言は槇有恒が書き、1977年の中公文庫版には甥・板倉勝正による「叔父・板倉勝宣のこと」という一文を収録。また、解説をみなみらんぼう氏が書いている。
名 言 等
この偉大なる景に接する時、人の心は真面目になる。山の前には人の作ったあらゆる官位や人爵が何の価もないものになってしまう。」
自然に接しえない人間は片輪である。自分の頭の空虚に気がつかず、外見大人になって内容のない議論をされてはやかましくていけない。一人で雪の中に立てば自分の馬鹿がわかる。浮き草のような根のない理屈が馬鹿げてくる。もっと子供になったほうがいい。自分の頭の空虚を知った子供にはさきがあるが、うぬぼれで錆がついた大人の前途は世の障害となるばかりだ。」
他人のために難解らしい理屈をこねる人は、山にくるのは見当ちがいだ。山は黙って歩きたい人が入るところだ。理屈に愛想をつかし、うわべを飾るに飽きた人の入るところだ。そのほかの人が入ると、お互いしっくりとこない。」


 


 
作  品  名
「黒部の山賊」 (伊藤 正一、1968年)
紹 介 文
(帯、裏表紙等)
山賊がいた!カッパもいた!?
北アルプス登山黎明期m、驚天動地の昔話。山小屋だけで買えた、山岳名著が復活!
(山と渓谷社定本版の帯より)
感  想  等
( 評価 : A)
 北アルプス・雲の平は周囲すべてを山に囲まれており、どの登山口から行っても2日はかかる。そんな日本最深部ともいえる黒部源流にある三俣小屋を、戦後間もない頃に購入した伊藤正一氏が、「山賊」と恐れられたならず者たちと交流を深めながら、山小屋を再興していく。というのは話の序章。本書では、人間離れした山賊たちの逸話や、熊・イワナ・カワウソなど動物の話、山で起こる不思議な出来事、遭難事件など、いろいろなエピソードが綴られている。まるでお伽話を読んでいるような気持ちでいると、突然黒部ダムやヘリコプターの話などが出てきて、タイムスリップしたような違和感を覚えてしまう。どこがどうとはうまく説明できないが、こんな時代があったんだな、こんな人たちがいたんだな・・・・・という不思議な思いにとらわれてしまう。読む者を惹きつけて止まない面白さが本書にはある。
名 言 等
幾多の知名人や、立派な人格者もきたなかで、私は山賊たちが好きだった。欠点だらけの彼らに、これほど心を惹かれるのはなぜだろうか。それは荒々しく美しい山を愛し、黒部源流開拓の困難な時代をともに生きてきた彼らの、あからさまな人間性の故ではないだろうか。」

 
 
 
作  品  名
「私の北壁」 (今井 通子、1968年)
紹 介 文
(帯、裏表紙等)
 1967年7月、マッターホルン北壁を、女性だけのパーティとしては世界で初めて、今井通子を隊長とする4人が登頂した。
 とまどいと不安、恐怖にうち勝って、ついに頂上をきわめたとき、なぜか静寂と虚脱のなかにいた。
 アイガー、グランドジョラスとあわせ、ヨーロッパ三大北壁を完登、三冠王となった女性トップ・クライマーの初の登頂記。
感 想 等
( 評価 : C)
 ヨーロッパ三大北壁全てを登攀した女流登山家今井通子さんが、山を始めさらに岩へとのめり込み、そして女性だけのパーティの隊長として、マッターホルン北壁を登攀するまでの半生を振り返る自伝的登攀記。
 新田次郎の「銀嶺の人」のモデルであり、まさに小説で描かれている部分と一致するので、両方読むと一層おもしろい。出番は少ないが、「銀嶺の人」で実に魅力的な女性として登場する若山美子さんが登場しているのもうれしい限り。
 内容はマッターホルン北壁を始め、さすがと言わざるを得ない内容なのだが、文章自体は妙に淡々としている感じ、いや淡々とし過ぎているくらい。だから、そのすごさが伝わってこないのかもしれない。
名 言 等
岩壁の中で見出す水はたとえ一滴であろうと貴重であり、心のなごむものだ。水道の蛇口を開け放し、両手で水を受け顔を洗う時より、この、ひとしずくの水滴で濡らすくちびるの方が、すがすがしく感じられるものだ。」
山に登るには、まず計画を立て、準備し、一つ一つ階段を上る登るように、経験、技術を身につけて行く。この繰り返しに創造の喜びを感じる。」
このすばらしい風景。この幻想的な空間の美。この美しさに感動しない人がいるだろうか?テラスから月を眺めるこの一時があってこそ、この山へ登る意義もあるのだ。疎ましい世事から隔離された世界にとけこんでゆく自分をしみじみと味わえる貴重な時間である。山という自然の中に無我の境をさとり、全く山の中に浸りきっていられる。この楽しみがなくて、何で苦労して山にはいれるだろう。」

 
 
 
作  品  名
「続・私の北壁」 (今井 通子、1972年)
紹 介 文
(帯、裏表紙等)
 アイガー北壁。垂直を超えた世界。岩質がもろいこの“赤い岩壁”の直登に世界で初めて成功したパーティに紅一点で参加。絶えまない岩なだれのなか、落石直撃で負傷した背中の痛みに耐えながらの登攀行。
 グランド・ジョラス北壁への挑戦。女性として、医者としての目が描く、細密な人間記録。隊員の健康に細やかな心配りをしながら、登頂完遂へと極限的努力を傾ける。
感  想  等
( 評価 : C)
 前作「私の北壁」に続いて、アイガーそしてグランド・ジョラスの北壁登攀記を収めた1冊。
 今井氏の文章と言うのは、登攀そのものの苦しさとか大変さよりも、仲間と過ごすことの楽しさ、ふれあい、そういったものの喜びに重点が置かれている感じがする。ただ、仲間との楽しさを伝えようとするあまり、やや内輪受け的な話や、馴れ合いの世界に入っているような感があり、逆に読み手に疎外感を感じさせる。その辺は人によって感じ方が違う部分かもしれない。
 ラストの方で、夫となるダンプさんとのグランド・ジョラス北壁登頂後の結婚記念行事は微笑ましい限り。クライマー同士ならではの素敵なエピソードだ。
名 言 等
暖かいバーナーの火の熱気など、さえぎるもののない広い壁の真ん中ではすぐ吹き飛んでしまう。しかし広大な北壁の中の一点にいる仲間のぬくもりは、心まで暖めてくれるものだ。」
山は私たちにとって敵ではなく、もともと人間を育んできた自然の一部なのだから、人間は智恵を生かし、山のもつすべてに対し、あるときはそっと避け、あるときは大いに利用して登らなければならない」
登攀は終わったのだ。しかし、この涙は登攀成功の喜びの涙ではなかった。むしろ登攀成功は私の心に一種の空しさを与えた。それは終わってしまったのだという空白感だった。」
ルート・ファインディングに悩まされ、遅いペースにイライラし、天候を案じ、しかめ面だったみんなが明るく笑うとき、ほんとうに山の良さが実感となる。こんな素晴らしいながめ、こんな楽しさがあるから山はやめられないのだ。」

 
 
 
作  品  名
「マッターホルンの空中トイレ」 (今井 通子、1995年)
紹 介 文
(帯、裏表紙等)
 ヨーロッパアルプスの名峰マッターホルンの山小屋には、標高四〇〇〇メートルに浮かぶ「空中トイレ」が存在した・・・・・!?
 女性登山家として活躍した筆者が、登山中や旅先で遭遇したいろいろなトイレ問題をユーモアたっぷりに紹介する異色エッセイ。
感 想 等
( 評価 : D)
 登山家・今井通子が、世界各地を飛び歩いている中で、見つけた変わったトイレ、排泄にまつわるさまざまなエピソードをまとめた1冊。正確には山行記ではないわけですが、登山家の人が書いたエッセーということで、こちらに分類しました。
 で、内容はというと、まぁ面白くないわけではないけれど、ブツ切り過ぎて今一という感じ。こういった話は、山行記の中のエピソードの1つとして紹介するからこそ面白いのであって、それだけ集められてもねぇ。山の話が中途半端過ぎて、物足りなさが残ります。
名 言 等
人間の基本行動の食べる・眠る・排泄するの中に、文化ではなく文明を持ち込んだ時から、自然の一員であった人間は自然界に背を向け、自然の法則をズタズタにしたわけです。」

 
 
 
作  品  名
「穂高小屋物語」 (今田重太郎、1971年)
紹 介 文
(帯、裏表紙等)
穂高に生きる、今田重太郎さんの記録
山男ならだれでも知っている穂高岳山荘主人の重太郎さんは、ことし74歳。いまなおかくしゃくとして山小屋を守りつづけている。これは今田老が、壮大な穂高を背景にその峻厳な美しさ、小屋にまつわる哀歓を存分に語る、山を愛する者の必読の書だ。
感 想 等
( 評価 : C)
 槍沢小屋(大正7年)、常念小屋(大正8年)、燕小屋・大槍小屋(大正10年)、殺生小屋(大正11年)に次いで、大正13年に穂高小屋を建てた今田重太郎の自伝。小屋開設以来50年に及ぶ穂高小屋(現穂高岳山荘)の歴史は、すなわち穂高・上高地の歴史でもある。
 穂高岳山荘をめぐる話だけでなく、大正池を生んだ焼岳の噴火や、「スポーツの宮様」と親しまれた秩父宮の逸話、時代とともに変化する登山事情などが生き生きと綴られている。
 序文を井上靖が書いているほか、上条嘉門次の弟子・内野常次郎や登山家・大島亮吉など著名人も登場しており、今田氏の人脈の広さが伺える。今田氏の人柄を映しているのか、文章も素朴で読みやすい。
名 言 等
山にいっぺん登った者は、山のすばらしい果てしない魅力のとりこになるだろう。それは非常に結構なことで、山を愛する気持ちはすなわち、人を愛する心につながる。」
ヨーロッパ・アルプス、ヒマラヤなど世界の屋根にいどまれた方々は、ほとんど穂高の岩場で修練し、技術を習得したうえ、成功されているのである。このことは穂高が、いかに山岳としての優しさを備えていると同時に、きびしさを持っているかを物語るもので、穂高を愛するわれわれの限りない喜びなのだ。」

 
 
 
作  品  名
「きのうの山 きょうの山」 (上田 哲農、1980年)
紹 介 文
(帯、裏表紙等)
 山歴四十年、日本の山々をこよなく愛した画家が、若い日の登山を回想し、そして、きのうきょうの心豊かな山行を語る。
感 想 等
( 評価 : D)
 画家にして、第二次RCCの同人でもあった登山界の大御所、上田哲農氏の心温まるエッセイ集。
 海外遠征の話も一部盛り込まれている割に、妙に古臭い印象を受けるのは、やはりエッセイの大半が、実際に書かれた時期が古いからだろうか。逆に、その古臭さが、どこか懐かしさを感じさせる独特の味を醸し出している。
名 言 等
岩を登るということは、岩の構造から骨格のすべて、そこへルートを予想し、手でさわり、足で確認し、岩と空間がかもしだす一日のあらゆる表情のなかへとけこむことなのだから―しかも、そのルートはいつも立派なものでありたいと彼等はねがう。彼等はある意味で芸術家である。」
それまでは、山や谷ならばどこでもいい。歩くこと、攀ること、いわば肉体の苦痛と愉悦とが山登りの魅力の大半だった。しかし、この山行を境として、自分の「あこがれ」を忠実に追い、登りたい山へ、登る方法を選んでいこうとするいき方へ、一歩をふみだした。」

 
 
 
作  品  名
「青春を山に賭けて」 (植村 直己、1971年)
紹 介 文
(帯、裏表紙等)
家では手伝いをなまけ、学校では手のつけられないひとりのイタズラ少年が、大学へ進んで、美しい山々と出会った。 大学時代、ドングリとあだ名されていた著者は、無一文で日本を出発し、ついに五大陸最高峰のすべてに登頂する。大自然の中の「何か」に挑まずにはいられなかった、その型破りの青春を語り尽くした感動編。
感 想 等
( 評価 : A)
 登山家、というよりも冒険家である植村直己氏が、裸一貫で日本を飛び出してから、様々な苦労を経て、世界五大陸最高峰を征服するまでを、回想した1冊。
 1つ1つの山についてはさほど多くのページを割いているわけではない(その部分については、後に出される書物に譲るとして)。しかし、植村氏が何を考え、いかにして自分の夢を実現していったかが描かれており、山行記と言うよりも、青春の記と呼んだ方がまさにピッタリくる。
 後年の本も良いが、植村氏が最も植村氏らしく、夢や希望・感動に満ち溢れているという点で、植村氏の著作を代表する作品と言えよう。
名 言 等
ヨーロッパ山行まで、何年かかるかしれないが、とにかく日本を出ることだ。英語ができない、フランス語ができないなどと言っていたら、一生外国など行けないのだ。男は、一度は体をはって冒険をやるべきだ。」
山登りはたとえどんな山であろうと、自分で計画し、準備し、自分の足で登山する。その過程が苦しければ苦しいだけ、それを克服して登りきった喜びは大きい。」
(五大陸最高峰最後の1つマッキンリーに登頂して)実現はさらに夢を呼び、私は登頂した感激よりも、南極大陸単独横断の夢が強く高鳴り、自分の本当の人生はこれからはじまるのだと、出発点に立った感じであった。」
いくら私が冒険好きだからといっても、経験と技術もなくて、また生還の可能性もない冒険に挑むことは、それは冒険でも、勇敢でもないのだ。無謀というべきものなのだ。」
私は五大陸の最高峰に登ったけれど、高い山に登ったからすごいとか、厳しい岩壁を登攀したからえらい、という考え方にはなれない。山登りを優劣でみてはいけないと思う。要は、どんな小さなハイキング的な山であっても、登る人自身が登り終えた後も深く心に残る登山がほんとうだと思う。」

 
 
 
作  品  名
「冒険」 (植村 直己、1980年)
紹 介 文
(帯、裏表紙等)
 「ダメだ、このままでは、ソリごと氷づめになってしまうぞ」
 反対側の犬は必死に逃げようとするが、ソリの先端が海に突っこみ始めた。ソリの後ろに立っていた私は、四つんばいになり、ソリから逃げた。落ちた犬四匹は沈みかけたソリをつたってはいあがったが、逆にソリはズブズブと音を立てて氷の下に姿を消してしまった。手に残ったのはムチ一本。
 「ああ、ソリが、食糧がなくては、オレは死んでしまう。なにもなくては凍死しかない。冒険なんか、もうどうでもいい」。
感 想 等
( 評価 : B)
 世界五大陸最高峰登頂、北極点単独行、グリーンランド縦断、アマゾン川イカダ下り等々、植村氏が行ってきた数々の冒険について記されている。但し、五大陸の部分は、かなりが「青春を…」からの転載・抜粋となっている。
 植村氏らしい飾らない朴訥な感じ、文章のうまさはさすがであるが、全体の構成にやや戸惑ってしまう。読む順番にもよるが、「青春を…」を読んでからだと、一部重複していることもあり、感動がやや薄れるかも。
名 言 等
人が既にやったことに興味はない。私は、自分の夢に関しては、非常にエゴイスティックな男だと思っている。」
山は他人のために登るのでははなく、結局は自分のために登るものだと思う。登頂の喜びを自分ひとりのものにしたい。私は、冒険という"仕事"に関しては、大変なエゴイストなのだ。」
冒険で命を落としては、なんにもならない。私にとって冒険とは、まず「生きて帰ること」なのだから。」

 
 
 
作  品  名
「エベレストを越えて」 (植村 直己、1982年)
紹 介 文
(帯、裏表紙等)
「私にとって良い山とはひとつの極限を意味している」
山を愛し、山に消えた不世出の冒険家にとって、エベレストこそは至上の“良い山”であった。1970年、日本人として初登頂したのをはじめ、五回にわたるエベレスト行の総決算としてつづった本書は、登山家・植村の<山への遺書>となった。
感 想 等
( 評価 : B)
 1970年、日本人として始めてエベレスト登頂をなし遂げた日本エベレスト登山隊を含め、国際エベレスト登山隊、日本冬期エベレスト登山隊と、3度に亘って(偵察も含めれば5度?)エベレストに関ってきた著者の、エベレストだけを取り上げた1冊。
 一部「青春を山に賭けて」と重複している部分もあるが、本作の方が山行記的な雰囲気が色濃くなっている。植村氏らしい人間的な優しさに溢れた名文はさすが。エベレストという世界最高峰が持つ独特の魔力が実感される1冊でもある。
名 言 等
私という人間は夢を抱いているときだけに生きている」
一言で言うと、山というのは、人それぞれに自分の山登りができればいちばんだと思う。人にあの山はいいとすすめられて登っても、その山の本当の良さは見つけられないかも知れないし、その山がその人にとって良い山だったかどうかもわからない。どの世界、どの道もそうだろうが、山というものは結局、自分で見つけていくものであろう。」
ひとつの旅が終わると、さらに次の行動にわが身を追いこんでいく。この性分はなおりそうもない。ただ最近は、旅を重ねれば重ねるほど、満足する度合いがうすくくなっているように感じられるのは困ったものだ。」
 
 
 

作  品  名
「丹沢物語」 (碓井 昭司、2004年)
紹 介 文
(帯、裏表紙等)
生きる喜びに満ちた20の短篇
 “丹沢”は関東三県にまたがる雄大な山の連なりです。山並みは深く入り組んで多くの沢を擁し、都会に近いにもかかわらず四季ごとに美しい表情を見せてくれます。
 著者は釣り竿を一本持って、山奥深くへ入ってゆきます。山に身をおきそこから街を振り返ることで、人の営みのはかなさと愛おしさが浮かび上がります。
 季刊『フライの雑誌』掲載の連作に書下ろし作品を編みました。瑞々しい筆致と爽やかな読後感をお楽しみ下さい。生きものが生きる喜びに満ちた一冊です。
感 想 等
( 評価 : C)
 タイトルを見て、当初、登山に関する本かと思って買ったら、釣り、特にフライでの渓流釣りに関するエッセイ集で、「フライの雑誌」に掲載されたものだった。でも、渓流釣りなので沢登りにも似た部分があるし、自然に対する思いや趣味にのめり込む様は登山と共通している。
 著者は自分より上の世代の方だが、スピード早く移り変わる世の中にあって、どこか共通した匂いのする郷愁が感じられた。何より、軽妙で洒脱な文章は、読んでいて楽しい。
名 言 等
魚止めまではまだ遠そうだったが、ぼくたちはそれから先に行くことを戒めた。心のうちに未知を残しておかないと、いつか自然から手厳しい罰を食らうだろう。」
釣りをしない人には、それが常軌を逸した行動に見えるらしく、ばっかじゃないの、と言われたこともあったが、川通いは生活費を得るための労働ではないのだ。労働ならば頭をさげまくって妥協してしまうところだが、釣りは遊びだから、かえって妥協はできないのである。」
生きることは苦しいことの連続で、だからこそ人には自然が必要である。自然は災害で突然に人の命を奪ったりするだけでなく、死という自然をもってしても、必ず人の命を奪うものだが、それでもなお人を癒す力をもっているのは、自然が人を養ってきた母だからである。それを忘れて、目先の利益だけで自然を壊すことは、母から頂いたわが身体に、自分で刃物をあてるに等しく、悲しいことである。」

 
 
 
作 品 名
「山と死者たち 幻想と現実の間に」 (遠藤 甲太、1979年)
感 想 等
( 評価 : C)
 クライマーにして芸術家とも言える遠藤甲太氏の著作。一応随筆というのが一番近い気がする。少なくとも山行記ではないだろう。
 遠藤甲太という人は、照れ屋なのかもしれない。真摯で真面目なくせにいい加減さを装ったり、わざと抽象的な表現で人を煙に巻こうとしたり・・・・・。一方、時として凄く本能的な面を見せる。生と死、肉体と精神、さらには性というものに対して、あくまで本質を求め、真正面から見つめようとする。常に生きることの境を歩いてきたクライマーならではの感受性なのだろう。
名 言 等
忘却とは生命あるものの自衛本能のひとつであって、死者たちがその形骸を保てなかったり、眼にふれぬところに祀られてしまったりすることも、生き残ったものたちの自らをまもる知恵なのであろう。」
生きているということさえともすると忘れてしまうような、無為な日常に浸っているわれわれにとって、この凝縮された生、肉体の、細胞ひとつひとつの爆発、叫び、それらめくるめくような瞬間は貴重である。極限的な闘い、しかも他を殺すこともない。この非日常的な魅惑ある営みは、おそらく現代の人間の忘れつつある、生命体固有の原初的な姿のひとつなのであろう。はげしく、なまめかしい呼吸をはやめながら、きわどく自己の崩壊へむかってゆく。それはほとんどセックスのときのあの陶酔と相似たものではないか?」
帰る為に登るのだよ。生きていることへの素朴な疑問と同じことさ。苦しみ多く、すべての実りは幻想であるこの現世というものを。そうだろう。やっぱり、かえるために生きているのだよ。」
危険や恐怖にさえ、ひとは次第に慣れてゆく。しまいには「死」にだって慣れてしまうのではないか。だが、私はひとなみ以上に臆病で、慎重らしい。」
登攀は何かの為にする行為ではないはずだ。山はそれ自体を目的とすべきであって、かなしみをやわらげる手段ではありません。」

 
 
 
作 品 名
「青春のヒマラヤ」 (遠藤 由加、1989年)
紹 介 文
(帯、裏表紙等)
やれば、誰でもできる!20歳のときローツェに失敗して発奮、日本の山々を駆けめぐり、人間改造をして3年目に無酸素で8000メートル峰に登る。その挫折と栄光のドキュメント。
感 想 等
( 評価 : C)
 日本人女性初の8000m峰無酸素登頂者。ナンガパルバットの後のガッシャブルム、チョー・オユーなどその後の活躍は衆知の通り。たぶん街中にいたら、小柄でボーイッシュな目立たない女の子、そのくらいにしか思えないような普通の女性が成し遂げた快挙。
 登山史上の意味合いはさておき、目標を達成するための根性と気力と負けん気、その凄まじさには感服する。例えば自分の場合、8000m峰などはとても登れないものとしてハナから諦めているが、それは登れないのではなく、登ろうとしていないに過ぎないということがよくわかる。人間何ごとも、やる気さえあればできるものなのかもしれない。
 また、8000m峰に向けて努力していく過程でいろんな人とぶつかっている遠藤氏が、登山を通して成長していく様子も興味深い。余談ではあるが、元旦那である遠藤晴行氏に対する呼称が、「遠藤さん」から「遠藤」、「晴行」へと変わってゆく様が、意図しているのかもしれないが面白い。
名 言 等
<冒険がしたい>−私を登山に駆りたてたのは、胸の奥底で熱く燃えるこの炎だった。」
やっぱり山が好きで、ますます山から離れることはできそうもないな。とくに冬の山、冬の登攀こそ最高におもしろい。」
私には山が必要なのだ。山に登りたい。山が好き―。爆発しそうなまでのこういう気持ちこそが大切だった。」
<八〇〇〇メートル峰の頂に立ちたい。立とう>そう思い続けて、いま、その一つを征服した。ローツェ、アコンカグア、K2。失敗があり、そこから成功が生まれた。私がいやだったことも楽しかったことも、また、大好きだった人もきらいだと思った人も、私のためには必要だった。そう思えるいまがあることに心から感謝しよう。」

 
 
 
作 品 名
「山 -随想-」 (大島 亮吉、1930年)
紹 介 文
(帯、裏表紙等)
山に憧れ、山に青春の情熱を注ぎ、昭和三年の春三月、前穂高北尾根で遭難死をとげた若き先駆者の遺稿集。
感 想 等
( 評価 : C)
 若くして穂高で死した登山家大島亮吉の随想集。冒険・探検に近いような北海道登山から、有名な「荒船と神津牧場付近」や峠論に見る「さまよい歩き」、はたまた北穂登山がごときハードな山行までさまざま。
 日本に近代登山というものが輸入され、浸透して行った時代の中で、登山に何を求めるのか。あくまで戦闘的に山に挑むのか、自らの内面的な幸福を求めるのかというジレンマにおいて、大島自身が試行錯誤、あるいは揺れ動いていたのではないかという気がする。やや理屈っぽ過ぎる感もあるが、登山思想史的にはおもしろい。
名 言 等
山は自分にとってひとつの謎ぶかい吸引力であり、山での死は恐らくその来る時は自分の満足して受けいれらるべき運命のみちびきであると思った。」
エヴェレスト登山隊のひとりが、エヴェレストの南東の二万七千九百九十九フィートの峻峰マカルは到底登攀不可能な山貌だと言っているのを読んだ時、僕は思わずも喜んだ。この地上の尊厳のために、かかる山頂のあることそれだけでも僕の心は安んぜしめられる。」」
私ら山に登るものはいかにして山を登るべきであるかと申しますに、それはあくまで山と闘う気持ちですすんでゆくピークハンターの心と、静かに内面的に深みを求める、すなわち静観的な態度とを深く交えて、ただ一途に山を登ってゆけばよいのであると私は教えらるるように思います。」
私はより高い、より新しい、より困難な峰々の頂きに立つことをもとより絶えず求めている。求めてやまないだろう。」
山。それは自分をはげしく動かす。さながら太陽よりも強く。」
単独登山は山登りのうえで最高の段階である。」

 
 
 
作 品 名
「南極大陸単独横断行」 (大場 満郎、2001年)
紹 介 文
(帯、裏表紙等)
北極と南極、地球の両端に立って、かけがえのない“青い星”についてもっと考えたい―この想いから両極横断行はスタートした。北極横断中に凍傷で足の指すべてを失い、挫折も味わっても、けっして諦めることはなかった。世界で初めて両極を歩いて横断することに成功した冒険家の「南極行」ノンフィクション。
感 想 等
( 評価 : B)
 北極そして南極大陸を、1人で歩いて横断した冒険家・大場満郎氏の、南極大陸横断時の記録である。
 悪天候、強風、サスツルギ、クレバス等々過酷な自然との闘いの記録そのものも確かに凄いのだが、それ以上に大場さんの生きることへの姿勢が素晴らしい。まえがきや本文の随所に出てくる生き方へのこだわり、自分らしくあることへの固執は自分も学ぶべきであろう。
 話は逸れるが、本書の所々に携帯電話が登場する。考えてみれば当たり前の話なのだが、過去のいろいろな冒険家の時代と比べて隔世の感がある。これによって大場さんの冒険の価値が下がるわけではないし、今の時代には必要なものだとは思う。が、やや寂しい気がする、などと言う発言は、自分で冒険をしていない人間の勝手な言い草なのだろう。
名 言 等
一人で歩くことは、私の原点なのである。」
貧しくてもいい。誰も私の話に耳を傾けてくれなくてもいい。私は自分の信じる道を、足の裏で、直に感じながら進んでいくことにした。」
冒険が私にもたらしてくれたもの。それは世界に住む人間がおもしろい、地球がおもしろい、ということである。」
世界初の両極単独徒歩行』という"勲章"が加わった今でも、私の夢は変わらない。それはあの鷹匠のじっちゃんのように、死ぬ間際まで輝いた目をして生きていくことである。」
どこかの大企業が目の前に一億円ポンと積んで、『北極にもう一回行ってくれ』と頼んできても、行けない。それで行けば絶対失敗する。自分が、『南極に行きたい!』と熱烈に思う気持ちがあって、それを理解してくれる企業の人の気持ちがあって、初めてお金を受け取れる。つまり、私はお金を通じて応援してくれる人の「気持ち」を受け取っているのだ。」
私は死ぬなら畳の上で死にたい。しかし一人の人間の生き方で大切なのは、死に際の場所ではなくて、どうやって生きてきたのか、ということだろう。満足のいく冒険ができているのなら、いつどこでも笑って死んでいける。」


 
 
作 品 名
「本のある山旅」 (大森 久雄、1996年)
紹 介 文@
(帯、裏表紙等)
 注ぐ愛情と、
 あふれ出る
登山

登山と本のふたつの世界を自在に往来しつつ、その限りない楽しみを綴る29編の紀行と随想
紹 介 文A
(帯、裏表紙等)
山を歩く時の、それも特にひとりで歩く時の道づれは・・・・・。私にとってそれは本である。まことに、本は最高最良の山仲間のひとりである。遠い国の山も、季節の違う山も、本の中でなら、いつでもたのしむことができる。
感 想 等
( 評価 : C)
 山を歩きながら、その山にまつわる山書の一文などを紹介する、ひと味違った山行記。著者が60歳前後に出かけた山行が多いせいか、静かな山歩きがい多い。「山と高原」の編集など長年雑誌編集を手がけた著者だけあって山書に関する知識は豊富で、山書好きにはうれしい1冊。
難を言えば、著者の年齢の関係か、古い本が多い点が気になる。「日本百名山」で組んだ深田久弥氏がよく出てくるのは仕方ないとしても、尾崎喜八、武田久吉、桑原武夫、大島亮吉など1930年代頃の本が多い。この時代が好きな人も多いだろうが、個人的にはもっと新しい山書の方が好みだ
名 言 等
気の合った仲間と、泊りを重ね、談笑しながら程よい山をいくつか越えて行くのは、人生の大きな幸せの一つである。」
峠は人の心を豊かにしてくれる。同じ山歩きでも、ある山をめざして行く時と峠が目的の時では、心のありように大きな違いがある。それはなぜか。峠は、人間の文化の、生活の営みの産物だからであろう。」
馬には乗ってみよ、山には登ってみよ、というわけだが、しかし、山には、どんな山でもそこに登るのに適した年齢というものがあり、また年齢を重ねるにつれてちがう山歩きができるものだ。」



 
作 品 名
「ザイルを結ぶとき」 (奥山 章、1973年)
紹  介  文
(帯、裏表紙等)
 戦時派登山家として日本の山岳界に一時代を画し、みずから逝った奥山章の情熱的生き方を伝える遺稿集。
感 想 等
( 評価 : C)
 第2次RCCの提唱者、ラッパ吹き・奥山章。本書は、奥山の死後に彼の死を悼んで編まれた追悼集であり、生前雑誌等に寄稿した文章が中心となっている。従って、若い頃の山行について記したものがあまりない。その意味では残念だが、巻頭の「ザイルを結ぶとき」はいい。ロマンチストの奥山章らしいというべきか。奥様による追悼文もまた、哀感のあるものとなっている。
名 言 等
スポーツは自ら楽しむものであって、人に見せるものではないのである。職業野球や拳闘の如きものは、もはやスポーツではない。オリムピックの選手がアマチュアでなければならないのはそのためである。特に登山は然りである。スポーツである以上、記録は大切であり、技術の向上は、それによってのみはかられるのであるが、人に誇らんがために、ハッタリで岩を登るのは愚の骨頂である。スポーツがスポーツであるためには、まずそれは楽しくなければならない」
登攀の興味というものが、人間の意思と能力で自然の障害を克服してゆく過程にあるとすれば、その興味の大半はトップが占めている。トップをゆくヒロイックな充実感、それは捨てがたい魅力である。」
三〇メートルのザイルを結びあうときの緊張、私はそれが好きだ。一連托生という感傷ではない。むしろ連結することによってトップ、ミドル、ラストと三つの部署に切り離された人間の孤独な感情が、ザイルという細いセンイを通して互いに触れ合おうとする。そこに私は人間臭いよろこびを感じるのだ。」
山は、いつも敵意を抱いている。人が山に闘いを挑むことをやめない限り、いつかある日、誰かがまた喪われてゆくだろう。それが"アルピニズムという不条理な遊戯"に課せられた宿命だとしたら、私はそれに耐えてゆかねばならないのだろうか。」
私は山が好きで、山登りが面白いからという極く簡単な理由で、山登りに熱中しているのであって、…」
まず山があり、次にその山に対する感動が起こり、それが行動となり、結果において記録を生む。それがアルピニズムなのだ。」

 
 
 
作 品 名
「果てしなき山行」 (尾崎 隆、1983年)
紹 介 文
(帯、裏表紙等)
登頂の感激と友情の喜びを求めてさらに困難登山へ。しかし挫折と悲しみが待っていた― 八〇〇〇メートル峰を五座登頂し、今もっとも注目されている若き登山者のさわやかな記録。
感 想 等
( 評価 : C)
 エベレストを始め8000m峰を何座も登頂、90年代半ばにはカカボラジ初登頂など、長く登山家として活躍した尾崎隆氏の若かりし頃の山行記録。
 これだけの記録を残しながら、文章からは謙虚な姿勢・人柄が滲み出ている。登山界の最先端で活躍し続けてきた人の大半が、道半ばにして山での死を余儀なくされている中、尾崎氏がこうして活躍を続けてこられたのも、この謙虚さゆえなのであろう。山に限った話ではない。常に自らを省みて、反省し、学ぶ姿勢・感謝する気持を忘れない。そんな人間的な魅力にも接して欲しい。
名 言 等
(20歳から2年間山を登らない生活を過ごし)普通の生活は楽しかったが、ぼくが考えていたほど充実していたものではないことに気付き始めていた。おれはもう山で死ぬことはないんだ、という安心感以外、毎日の生活には張りというものがなく、今後の自分の人生に希望を見出すことができなかった。何か心にポッカリと大きな穴があいてしまったような感じがしていた。」
ぼくの体験から言えば、極限状態での他人への献身は、身を削られるほど辛く苦しいものだ。できるなら目をつぶって見ないふりをしていたいという誘惑にかられるのが普通である。こんな時に自分さえよければというエゴイズムに撤しきれたら、どんなにか楽だろうと思ったりする。だが実際はこれとは正反対のものだ。相手がぼくと同じ苦しい状態にありながら、自分の危険と苦痛をかえりみず、思いやりを示してくれたら、ぼくはそれを一生忘れないだろう。そのことは、相手にとっても同じだ。真の友情はそこから生まれる。人と人との心のふれあいは、豊かな人生を築いていくための欠くべからざる要素である。山登りをやっていてよかったという幸福感に満たされるのは、まさにこの時なのだ。」
もし人生のうちの一番素晴らしい一日を再び取り戻せるとしたなら、ぼくは迷うことなくこの日を選ぶだろう。この心奪われる美しい日々の最も心に焼きついている頂上アタックの日の感動を、ぼくはいつまでも忘れることがないだろう。」
自分のコンディション調整ミスや、判断のミスによる失敗はのちのち悔いが残るが、山のコンディションが悪い時に、いくら人間があがいてみてもどうにもなるものではない。命あってのものだねで、こういう時には、さっさと逃げるのが一番だ。生きていればまた何度でも行けるのである。」
登山はぼくにとって命であり、人生そのものである。今ぼくから登山をとったら何も残らず、からっぽの人間になってしまうに違いない。」
 
 
 
 
作 品 名
「栂海新道を拓く」 (小野 健、2010年)
紹 介 文
(帯、裏表紙等)
雲上の北アルプスから日本海へ。
全長27キロに及ぶ長大な縦走路を10年の歳月をかけて開拓したのは、小さな地元の山岳会だった……。
幻の著書『山族野郎の青春(昭和46年刊)』を全面的に改稿し、さらにその後、現在に至るまでの栂海新道の変遷を辿った待望の一冊。
感 想 等
( 評価 : C)
 日本の屋台骨・北アルプスを、上高地から槍穂高連峰、後立山を通って日本海まで縦走してみたいと夢想したことのある登山者は少なくないことだろう。縦走するだけでも大変なルート、その朝日岳から北の30km弱の登山道を、民間の一山岳会が切り拓いたと知ってまず驚いた。普通、登山道と言えば猟師などの杣道や獣道を活用し、山小屋の方が登山者や小屋のために整備しているものだと思っていた。もちろん、それも並々ならぬ苦労を伴うものだが、それを本業の仕事を持ちながら、趣味の延長、ボランティアで実行してしまうのだから、その情熱と熱意、根気は凄まじい。元々、電気化学工業化という会社の化学工場で、石灰石採掘地区拡大のための伐採や測量を仕事でやっており特殊スキルを持っていたという点を割り引いても、自らパイオニアワークと呼ぶのも頷ける素晴らしさだ。著者の仕事の関係や、あるいは嗜好の問題なのか、地質・地層や高山植物に関わる記述が特に詳しい。
名 言 等
当時は初登攀とか海外遠征に懸命になっている山岳会が多かった。近代アルピニズムの追求とか、パイオニアワークとかいわれていたが、私たちにそんなかっこいいことができるはずもなかった。それよりも自分たちのプロの技量を発揮すれば、田舎の無名の小集団にだって他人のやらないことができるかもしれない。(中略)そしてこの細やかな登山道伐開事業こそ、われわれが実現できる小さなパイオニアワークではないだろうか。」
町での生活の倦怠から逃れるように山に入る。山はその期待にいつも応えてくれる。だが数日の山中生活に別れて山を去る日、私たちの足どりはうきうきと軽やかである。」
どんな場合もカーブを使わずに、稜線上を忠実にトレースする直球で完成させるのが私の信念でもある。」