山岳ノンフィクション(評論・ルポ)
〜詳細データ・ま行〜
 
 


 
作  品  名
「山小屋ごはん」
(松本 理恵、2008年)
紹  介  文
(帯、裏表紙等)
週末、天気がよかったら、たまにぽっかり休みがとれたら、「山小屋ごはん」しにいきませんか。おいしいものはみんなをしあわせに、あたたかな人と空気はこころをゆるゆるに、窓からの景色は、自然を慈しむ心に、変えてくれます。
内容・感想等
 山小屋紹介本にもいろいろあるが、本書は“食事”に着目したもの。ここに出ている山小屋ごはんのいくつかは実際に食べたことがあり、本当に美味しいのだが、食事の美味しさは食事だけで決まるわけではない。山小屋の雰囲気であったり、ご主人の人柄であったり、そういう全ての要素を加味した結果、「美味しい」と感じてしまうのだ。もちろん、山の中で体を動かし、汗をかいた後のごはんは文句なしに美味しいのだが。
 本書は、小屋までのアプローチの難易度により3段階に分けて紹介しているが、正直「あしたいけちゃう 車でもいけちゃう」は、登山を必要としない小屋ばかり。それでも、写真を見ると美味しそうで、行きたくなってしまう。これも山が持つ独特の魔力のせいかもしれない。


 


 
作  品  名
「死者は還らず」 〜山岳遭難の現実〜
 (丸山 直樹、1998年)
紹  介  文
(帯、裏表紙等)
疲労凍死、転・滑落、沢登り中の溺死、高山病、道迷い・・・・・冬山から夏山まで、八件の遭難事故を追跡したドキュメント。関係者・遺族への克明なインタビューによって事故の経過を浮かび上がらせ、悲劇の真相に迫る意欲作。
内容・感想等
 本書は遭難について書いたものである。判断を誤った、知識が足りなかった、無理をしてしまったなどという通り一遍の理由ではなく、なぜそうした間違いを犯したのか、なぜ知識を身につけることができなかったのか、なぜ無理をしなければならなかったのか、その本当の理由、奥の奥まで突っ込んでいる。時には死者に鞭打つような指摘もある。遺族の傷をえぐるような記述もある。しかし、筆者はそれを承知の上で敢えて書いている。そうしなければ、遭難の実態、本当の原因がわからないからだ。読者の中には、こうしたきつい書きぶりを嫌う人もいるかもしれないが、自ら悪人になってでも伝えるべきことを伝えようとする姿勢は見事である。但し読者は、事実に「丸山直樹」というバイアスがかかっていることを認識しておく必要があるだろう。

 
 
 
作  品  名
「ソロ」 〜単独登攀者 山野井泰史〜
 (丸山 直樹、1998年)
紹  介  文
(帯、裏表紙等)
ヒマラヤの大岩壁に果敢な単独登攀で挑みつづける山野井泰史。その行動と思想を克明な取材で追う。10代のクライミング武者修業からトール西壁、冬季フィッツロイ、冬季アマ・ダブラム西壁の単独初登を経て、チョー・オユー、マカルーといった8000メートル峰の壁に挑むまでを描く意欲作。
内容・感想等
 トール西壁、フィッツロイ、チョー・オユー南西壁…。日本を、世界を代表するソロ・クライマー山野井泰史の人間像に迫るノンフィクション。
 思うに、ノンフィクションには2つのタイプがある。事実の重み・客観性を重視し、極力主観を排除する書き方と、事実に対する主観、すなわち自分の思いや印象を前面に押し出す書き方である。丸山直樹氏は後者の最たる例と言えよう。書き方の違いは良し悪しではなく好みの問題に過ぎない。
 丸山氏のあまりにストレートな物言い、時にはミスリードしているのではないかと思えるほどの憶測を交えた表現を、人によっては嫌うかもしれない。はっきり言って、その書き方は山野井氏や長尾氏に対して失礼じゃないか、と思う箇所もある。それでも強烈な個性により、本書は山野井氏のドキュメントであると同時に、明かに丸山氏の書となっている。



 
作  品  名
「山小屋はいらないのか」
 (三俣山荘撤去命令を撤回させる会 編、1995年)
紹  介  文
(帯、裏表紙等)
私はこの問題を世に問いたい。そして日本の司法当局がこれをどう裁くか知りたい。もとより勝敗のほどはわからないが、万一、不幸にしてたたかいに敗れ、私があの山を去らなくてはならない事態になったとしても、思い出は残るが悔いは残らないであろう。 (三俣山荘・伊藤正一)
内容・感想等
 従来、地価に比例して支払われてきた山小屋の地代を、林野庁は(コストを無視した)総収入に応じた方式に変更するという。論理的根拠も希薄であるし、実質的な数倍の値上げである。これに反対する三俣山荘・伊藤正一氏に対し、山小屋撤去命令が出された。本書は、伊藤氏らを支援する作家・森村誠一氏など三俣山荘撤去命令を撤回させる会によりまとめられた、林野庁への挑戦状である。
 この問題が今現在どういう状態にあるのか、何らかの決着を見たのか、恥ずかしながら知らない。しかし、山を愛する者の1人として、役所の横暴が許し難いことだけは言うまでもない。
 
 
 
作  品  名
「山に生きる人々」
 (宮本常一、1964年)
紹  介  文
(帯、裏表紙等)
山には「塩の道」もあれば「カッタイ道」もあり、サンカ、木地屋、マタギ、杣人、焼畑農業者、鉱山師、炭焼き、修験者、落人の末裔…さまざまな漂白民が生活していた。ていねいなフィールドワークと真摯な研究で、失われゆくもうひとつの(非)常民の姿を記録する。宮本民俗学の代表作の初めての文庫化。
内容・感想等
 民俗学者、という枠には収まりきらないであろうフィールド・ワーカー宮本常一氏による山岳民族に関する論考。「日本民衆史」の第二巻に収められており、1964年に刊行された。
 猟師・マタギ、杣人(材木伐採・製材)、木地屋(木製の器物製作)、砂鉄精錬(砂鉄掘り、たたら、鍛冶屋)、炭焼き・・・・・。さまざまな職業の人々が、さまざまな理由から山で生きてきた。そうした山に生きた人々の生活、成り立ち、生き方を、古文書や伝承などから解き明かしていく。一部に推測や憶測も入っているようだが、それも読んでいるうちに本当のような気がしてくる。こうした検証は、氏が生きてきた戦前から戦後にかけての時期が最後のチャンスであり、もはや実証不可能なのかもしれない。それだけに、貴重な記録と言えよう。